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たむら ひさい

田村久井

たむら ひさい

1851(嘉永3)〜 1926.4.1(大正15)

明治期の陸軍軍人(少将)

埋葬場所: 10区 2種 26側 32番

 高知城北江口村出身。西南戦争の時に騎兵軍曹として出征し曹長に進んだ。1881.6.24(M14)陸軍少尉となる。1886〜1889.7フランスに留学し、その間に大尉となる。1890帰朝後に留学先で学んだことをまとめた『仏国騎兵戦時勤務教育法』を刊行。
 1894(M27)頃、少佐となり、第3師団に新設された騎兵第3大隊長となる。中佐の頃は陸軍獣医学校長を務めた。1898.2.15陸軍省軍務局騎兵課長を経て、1899.12.25騎兵大佐に昇進し、1900.4.25騎兵第13聯隊長に就任。
 日露戦争では徳利寺の戦いで田村の連隊を主力とする騎兵第1旅団がロシアの騎兵部隊と激突し、熾烈な乗馬戦の末、当時最強と謳われていたコサック騎兵を騎兵正規の戦いである乗馬戦で破った。 戦中、'04.9.21少将に進級し、騎兵第2旅団長となる。翌.3.2 第3軍の指揮下にあった騎兵第2旅団は秋山好古率いる支隊に加わることになり(階級は同じだが、田村よりも秋山の方が古参)、ここに日露戦争最大の日本騎兵隊が結成された。
 日露戦争後、第2旅団所属将校の馬券購買事件が発覚。疑惑のあった将校への懲戒権を持っていたが、部下からの報告の元、事件は事実無根と判断。憲兵隊との全面的な対決も辞さない覚悟で対立した。 これは憲兵隊の直属の指揮権を持つ寺内正毅陸軍大臣とも対立する格好となった。そのため、田村は5年間も騎兵第2旅団長のまま据え置かれ、冷遇され、輝かしい戦歴を持ちながらも、'09.9.15後備役となってしまった。従4位勲2等功3級。享年75歳。

<陸海軍将官人事総覧>
<日本騎兵史など>


 


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