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たまてやま しちろう

玉手山七郎

たまてやま しちろう

1887.7.14(明治20)〜 1941.9.13(昭和16)

明治・大正期の大相撲力士

埋葬場所: 18区 1種 19側〔縁本家〕

 福井県大野郡(大野市)出身。本名は縁本七郎。1904(M37)大嶽親方(元幕下の毛谷村六介)の長男の紹介で大嶽部屋に入門。 狼七郎の四股名で初土俵を踏むも、脚気を理由に廃業(実際は脱走)。後に大阪相撲の雷部屋に加入し小嵐を名乗る。 東京相撲へ復帰した際に同名力士がいたため、改名を考え、後援者である日米商店が直輸入契約を結んでいたイギリス製のラージ自転車にちなみ、羅亜地山と改名届を出したところ、広告的な力士名は受け付けられないと協会から却下された。 やむを得ず、龍田川という四股名を付ける。再び大阪相撲に戻り、中村部屋(大阪)に加入し四股名も小嵐に戻して入幕を果したが、放駒の東京相撲への加入問題が引き起こした混乱に嫌気が差して脱走し、三度上京、幕内に附け出された。四股名は玉手山を名乗る。
 '11.2新入幕の場所は初日から3連敗を喫して自信をなくし、休場して帰阪の支度をしたが、兄弟子の玉椿に諭されて再出場し、4連勝で乗り切った。同年6月場所から玉手山勝司とし、'13.1より四股名を玉手山七郎とした。'14(T3)小結に昇進。'15関脇に昇進。'17.5頸部を負傷し、'18の1月場所限りで引退。年寄り大嶽を襲名した。
 171cm、90kg。小兵だが足腰が粘り強く、右四つで食い下がってから変化と奇手を用いる俊敏な取り口。兄弟子の玉椿の薫陶を受け、手取りの曲者として併称された。
 '20の1月場所限りで廃業した。廃業後は東京中野で「玉手山養鶏場」を経営して東京一の養鶏場との評判を取り、鶏卵・酒類販売業を営んで繁盛した。享年54歳。

<大相撲力士名鑑など>


幕内成績 〔玉手山〕
明治44年 2月番附外(西)4勝3敗3休
幕内成績 〔玉手山 勝司〕
明治44年 6月西前155勝4敗1分
明治45年 1月東前 77勝3敗
明治45年 5月西前 22勝6敗2分
幕内成績 〔玉手山 七郎〕
大正 2年 1月西前 92勝2敗2分1預3休
大正 2年 5月東前 96勝1敗2分1休
大正 3年 1月東前 15勝2敗2分1預
大正 3年 5月西小結6勝1敗3分
大正 4年 1月西関脇4勝2敗3分1休
大正 4年 6月東張小4勝4敗1分1預
大正 5年 1月西関脇1勝6敗3休
大正 5年 5月西前 36勝4敗
大正 6年 1月東小結1勝9敗
大正 6年 5月東前 71勝3敗6休
大正 7年 1月西前121勝9休
通算成績 : 15場所  55勝50敗16分3預26休


墓所

*墓石は和型で「縁本家之墓」。左側に墓誌があり、戒名は玉手院顕勝朗山居士。「大日本大角力関脇力士 玉手山事俗名縁本七郎 行年五十五歳」と刻む。

*同墓所には、息子で陸軍曹長としてパラオ島にて戦死した縁本誠二郎(享年40)と、孫でガダルカナル島で戦死した海軍職の縁本明(享年19)も眠る。

*多磨霊園には、玉手山引退後に活躍した力士、若常陸恒吉(21-2-83 大庭家)もいる。


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