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たけとみ わたる

武富 済

たけとみ わたる

1879.4.23(明治12)〜 1937.3.2(昭和12)

明治・大正・昭和期の検事、弁護士、貴族院議員

埋葬場所: 13区 2種 6側 46番

 愛知県刈谷町宇熊出身。安養寺三浦長音の娘を母とし生まれる。旧姓は三浦。名は「さい」とも読む。正漢字表記は濟。北海道開拓の実業家の武富善吉の養子となる。
 1904(M37)東京帝国大学法科大学独法科卒業。司法官試補、'06検事に任ぜられ、千葉地方裁判所検事、東京区裁判所兼東京地方裁判所検事となる。 この時、幸徳秋水の大逆事件に際し係検事として鬼検事の名を博した。大審院検事事務取扱を歴任し、'12(T1)検事を辞して弁護士を開業。東京弁護士会常議員会議長を務める。
 '16衆議院議員選挙に出馬するが落選、'24再び立憲民政党公認で衆議院議員(愛知県第4区選出)に立候補し当選。以後連続当選5回(〜'37)。 立憲民政党総務を務めた。樺太視察のため派遣される。'29(S4)浜口内閣の初代拓務参与官などを歴任した。 同年、小選挙区制法案に反対し、5時間30分の長時間演説を行い副議長に討議を打ち切られるという、憲政史上最長記録者として歴史に名を刻む。'36病に罹り、現職のまま逝去。享年58歳。

<歴代閣僚と国会議員名鑑>
<刈谷人物名鑑>
<講談社日本人名大辞典など>


墓所

*墓所には3基の和型墓石が並ぶ。真ん中が武富済夫妻の墓石であり、正面は戒名が刻む。武富済の戒名は賢明院宏濟奎暁居士。 左側は「武富家之墓」。右側は「武富家先祖代々之霊位」。墓誌があり、武富貴志男と妻の節の戒名、俗名、歿年月日、享年が刻む。 なお、武富貴志男は正四位 勲二等と刻む。何をやった人なのかは調査中。なお、養父の武富善吉が同墓であるのかは不明であるが、下に略歴を載せる。


武富善吉 たけとみ ぜんきち
1851(天保10)〜 1911(明治44)
明治期の実業家

 肥前国佐賀郡道祖元町出身(佐賀県)。佐賀藩士の武富義八の3男として生まれた。
 佐賀藩が設立した広業商会という半官半民の商事会社に従事し、佐賀藩の財政を支えた。明治期以降、佐賀藩の士族とともに移民し北海道開拓に貢献。 1876(M9)官側資金の出所は大蔵省勧業局、民間側から武富善吉、笠野熊吉などの佐賀商人らが設立発起人となり、広業商会の函館支店を設立して支配人となる。 中国向け輸出鹿角、鹿皮、アイヌ生産物等を取り扱い、特に昆布貿易に力を入れた。1881.1〜1883.2函館区民議員。この間、1882広業商会幹事。
 1884函館を離れて釧路にて、釧路郵便電信局の設立を請願し設立。 また、江戸時代から代々続く佐野碑園という釧路郡漁業経営権を、佐野孫右衛門より買収し、昆布の取扱いを中心に自ら生産に当たり、また厚岸には商会の出張所を設けて同じ佐賀県人の中川久平を派遣して現地の生産集荷体制を固めた。 1885釧路、厚岸地方の昆布漁民を安定、定着させ、広業商会の設立当初の目的をほぼ達成して解散。昆布事業は後に日本昆布会社に引き継がれた。1904倉庫業を始める。 1907釧路銀行、合資会社釧路製材造船会社を設立するなど、釧路の開発に多くの足跡を残した。1909石狩国に武富農場を開設した。弟の隆太郎は5代目釧路町長を務めた。


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