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たかぎ じんざぶろう

高木甚三郎

たかぎ じんざぶろう

1846(弘化3.3)〜 1928.5.29(昭和3)

明治・大正・昭和期の実業家、
キリスト教教育者

埋葬場所: 12区 2種 41側

 遠江国山名郡袋井宿(静岡県袋井市)出身。商家の家に生まれる。1869(M2)上京し、下谷区(台東区上野)の紙商の渡辺儀助の下で修業する。1876 本郷区(文京区湯島)の老舗味噌製造業「伊勢利商店」を営む高木家の たみ の婿養子となり、高木姓になり別家相続する。神田同朋町(千代田区外神田)で紙問屋「高木紙店」を経営し成功した。
 カトリック新聞1878号によると、1878頃に商売のことで築地教会を知り、はじめは「天主堂などと書いた看板を出しているが、実際は邪宗門のヤソ教なんだから看板をはずさせてやる」とばかり、意気込んで教会へ押し込んだという。ところが、それが縁で宣教師と仲良くなり信者になった。
 1879.6 浅草向柳原の浅草・聖パウロ教会にて宗教講究し、1880.1.19 妻と共に洗礼を受けた。霊名はパウロ。長いあいだ教会を援助しながら、1885.1 浅草教会内の児童福祉施設「まいかい(王+攵 瑰)学校」の幹事となり運営に協力した。
 当時の日本は地所質書入規則により外国人が土地を取得することが禁止されていた。日本北緯使徒座代理区の初代司教として来日したピエール・マリー・オズーフは教会発展のために東京中心地に土地を求めたが叶わずにいたときに、1886.5.22 高木他6名の信者たちと浅草教会信者名義で小石川関口台町(文京区関口)の土地を購入。この土地は常陸国茨城郡宍所の藩主の松平頼徳の屋敷跡4,800坪の土地で土地所有者の一柳末徳から得た。
 仏文科教頭でありパリ外国宣教会の司祭ジャン・ピエール・レイから、まい瑰学校の孤児たちも青年となり、職業訓練等が必要のためもっと大きな施設でありたいと相談され、既に購入していた土地に「聖母仏語学校」を設立するため東京府へ設置願を提出した。1887.12.27 許可され、1888.1.7 聖母仏語学校開校に伴い初代校主となった。表向きは「フランス語学校」であるが、実態は児童福祉施設であり、また政府によって活動を制限されていた外国人宣教師たちの宗教活動を補助するための機関でもあった。なお学校は職業訓練として食パン製造、土木、裁縫、靴工、左官などを習得させたが、特に食パン製造は成功を収め「関口パン」の愛称で親しまれる程に評判になった。
 1887浅草教会の布教会委員に選出(〜1896)。1893天主教会喜捨会総代。1897布教会委員補佐として特別委員に推薦され、浅草教会信徒総代になる。
 1899.9.10 聖母仏語学校の付属聖堂を建堂。1900.2.26 オズーフと共に信徒総代として東京府に聖母教会堂(カトリック関口教会)設立願を提出。同.10.7 許可されたため、付属聖堂を聖母教会として独立。1903公教教友会入会、東京6教会全域でも活躍した。
 1904 聖母仏語学校を閉鎖し、児童福祉施設「まい瑰塾」に転換。'16(T5)第一次世界大戦の影響でフランスからの援助金が途絶え、塾の経営が困難になる。そこで、関口教会の信者であった高世啓三が製パン工場の経営を引き継ぎ、関口フランスパン製作所を発足。
 1549年(天文18)カトリック教会イエズス会の宣教師であったフランシスコ・ザビエルが、日本で高等教育機関開設を構想した書をローマに送っていた。数世紀を経た後、1905年(M38)にローマ教皇ピウス10世が、日本での高等教育機関設立をイエズス会に託し、ウィリアム・オコンネル司教を親善大使として明治天皇宛に親書を託し派遣。'08 日本に大学を設立するために3人のイエズス会員のヨゼフ・ダールマン(ドイツ)、アンリ・ブシェー(フランス)、ジェームズ・ロックリフ(イギリス)が来日。オコンネル司教が東京市長、帝国大学総長、桂太郎首相と精力的に会談を重ねた結果、'11 財団法人上智学院を設立され、'13(T2)専門学校令による上智大学が開校した('28大学令による大学となる)。上智大学初代学長はヘルマン・ホフマン。
 高木は高木義澄と名乗り、上智学院の発足当初より奉職。晩年は上智大学の敷地内に住んでいたとされる。享年82歳。葬儀は浅草教会で教会初の盛大な教会葬が営まれ、ジャン・アレキシス・シャンボンやジャン・ピエール・レイの二大司教を初め、多数の神父、信徒が会葬した。

<キリスト教総覧>
<カトリック新聞>
<東京教区ニュース>
<浅草教会 百年のめぐみ>
<関口教会創立百周年記念>


墓所 墓誌碑

*墓石は自然石に「高木家之墓」。墓所右手側に高木甚三郎から家督を継承した養子の高木丹蔵の墓誌碑と、洋型「角田家」が建つ。「角田家」墓石の裏面は角田家の墓誌となっており、角田地恵子、俊一、功の刻みがある。高木家の墓誌はない。

*高木丹蔵の墓誌碑には、「通称 丹蔵」、その下に「甚三郎 利 下眠」と刻む。これら刻みを挟み、右に「方濟各沙勿略」、左に「斐禄黙納」と刻む。「方濟各沙勿略」はフランシスコ・ザビエルの当て字(頭に聖をつける場合、真ん中の各がない場合もある)。「斐禄黙納」はフィロメナの当て字であるので丹蔵夫妻の霊名。墓誌碑の上部には「上智學院奉職二十有余年」という刻みとともに、趣味と刻み「絵画 玉秀」「写真 凌陰」「盆栽 高樹園」「盆景 三峰庵 秀ゑ」と刻む。上智学院(上智大学)創立に尽力し敷地内に住んでいた甚三郎をきっかけに、丹蔵が長年奉職していたことがわかる。


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