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たじま これたか

但馬惟孝

たじま これたか

1859(安政6.8.15)〜 1904.11.30(明治37)

明治時代の海軍軍人(大佐)、ペルリ時計

埋葬場所: 12区 1種 17側

 薩摩(鹿児島県)出身。父は江戸後期に勃発した薩摩藩お家騒動に深く関わった薩摩藩士の但馬惟勤・せい(共に同墓)の第二子(墓誌には四男と刻む)。
 1874(M7)海軍兵学寮に入り業を卒って、海軍少尉補に任じられる。砲術教官などをつとめた。1890(M23)下田奉行組与力を勤めていた山本謙兵衛から「ペルリ時計」を譲り受けた。 「ペルリ時計」は幕末に来日した米提督ペリーが下田(静岡県)に滞在中、ペリーの艦隊の警備などを担当した幕府の下田奉行組与力だった山本謙兵衛に贈ったものである。
 1892海軍大学校卒業(甲号4期)。1894日清戦争では海軍大尉として厳島砲術長を以て従軍し、功に依て勲6等単光旭日章、及び功5級金鵄勲章を授けられた。 1897海軍中佐。1900清国事変が起こるや再び従軍し功に依て金若千を賜る。1904日露戦争では濟遠艦長(濟遠=巡洋艦)を以て三度目の従軍。 '04.11.30旅順口封鎖中に同艦敵の水雷に触れ鳩湾外に戦死した。享年46歳。没後、特進し海軍大佐となる。また、勲3等旭日中綬章、及び功3級金鵄勲章を追贈された。正5位。
 妻はツネ(旧姓今井・1932没)。三男一女を儲ける。

<講談社人名事典>
<但馬惟孝君之碑より>


墓所

*墓所正面に和型「但馬家之墓」。左に「但馬惟孝君之碑」、右に墓誌が建つ。入口両脇に「献燈」と刻む燈籠が左右に建つ。 墓誌には「但馬家は文保元年(1317年)に但馬之国桃島(城崎)より薩摩之国へ移る。 大正四年鹿児島市南林寺より青山墓地に改葬し、昭和拾参年(13年)青山墓地より多磨霊園に改葬」と刻む。同墓所には惟孝の祖父の但馬仁左衛門 惟用 以降が眠る。

*ペルリ時計は惟孝の孫の但馬惟義(惟孝の二男の惟教の長男 1927-2010 同墓)が生前所蔵しており、2006(H18)横浜開港資料館で展示された。 なお、その際、1883(M17)惟孝が購入した「ペルリ絵巻」(黒沼道継が実際に下田に滞在し見聞したところを書き記したもの)も併せて展示公開された。


【ぺルリ時計】
 当時米国で量産されていたS・B・テリー社製の棚(Shelf)クロックと呼ばれるタイプの時計。高さ約33.5センチ、底辺幅24.59センチ、上辺22.0センチの置き時計。
 蛇足であるが、英語の発音では「ペリー」、オランダ語の発音では「ペルリ」。ちなみに、漢字表記にすると「彼理」。


【惟孝の父の但馬惟勤(市助)と薩摩藩お家騒動】
 惟孝の父である但馬惟勤(別称:但馬市助:1804-1869)は薩摩藩士である。江戸後期(嘉永)に勃発した薩摩藩お家騒動(「近藤崩れ」、「高崎崩れ」、「お由羅騒動」、「嘉永朋党事件」とも呼ばれる)の顛末に関わった人物である。
 当時、薩摩藩では当主の島津斉興と世子の島津斉彬が対立しており、家督相続をめぐって斉彬の異母弟(斉興の愛妾由羅の息子)久光の擁立の動きが生まれ、家臣は斉彬派と久光派に分かれて党争を繰広げていた。 1848.5(嘉永1)と1849.6(嘉永2)に斉彬の次男と四男が次々に没し、由羅が斉彬父子を調伏したからだとの噂が流れた。これにより斉彬派の「斉興隠居・斉彬擁立」の動きはますます盛んとなり、障害となる島津将曹らの暗殺を企てた。 1849.12.3(嘉永2)この暗殺計画を知った斉興は激怒し、中心人物であった近藤隆左衛門(町奉行兼物頭)、高崎五郎右衛門(船奉行)、山田一郎左衛門(町奉行格鉄砲奉行勤)、土持岱助(兵具方目付)、村田平内左衛門(道方目付)、国分猪十郎(無役)の六人に切腹を命じたのを始め、総勢約50名に遠島・謹慎などの重い処分を下した。
 斉興が彼らの暗殺計画を知るに至った経緯は、但馬惟勤(市助)が反覆して、同志の計画を伊集院平に密告したことからである。


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