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たいら こま

平 こま

たいら こま

1873.5.17(明治6)〜 1945.4.9(昭和20)

明治・大正・昭和期の花道家(華道)

埋葬場所: 24区 2種 14側

 山形県米沢出身。1894(M27)大石繁治と結婚し、4男3女を儲けたが、夫が早くに没したため、養育のために花道教授として生計を立てることを決意し、'13(T2)小原流祖六合軒雲心(小原雲心)に入門。 爾来、二代光雲を経て、当流家元家の最高職に任ぜられ、東京国風社へ要職に就いた。この間、一鴬門下として指導を受け、資性英遭として尊敬され、技洵に秀、逸他の追随を許さず、また女流の随一として全国に出向いた。会津にて病没。享年73歳。

<墓誌碑より>


*師である小原雲心(1861〜1916)とは、島根県松山市出身、本名は房五郎。父は彫刻家の高田藤右衛門だが、小原家の養子となる。 彫刻家として名声を得ながら、いけばなに転じ、盛花・投入の創始者となる。 伝統的主流の池坊から盛花の採用を却下されたため、1912小原式国風盛花を掲げて、池坊から独立、小原流の開祖・いけばなの家元となった。六合軒は号である。 2代目の小原光雲(1880〜1938)は、初代の子であり、本名は光一郎。専門家の養成に力を注ぎ、また雑誌やラジオで盛花を全国に普及させた人物である。 「いけばなはソロバンなり」の名言を残す。3代目は小原豊雲(1908〜1995)であり、2代目の子。2代目が没し3代目を継ぐも、その時30歳と若かったこともあり、平こま等の力を借りながら小原流の発展に寄与した。 戦後、前衛いけばなの総師と目される。いけばなを世界的に広め、流を法人化し、いけばなを民主化する尽力をなした。 4代目は小原夏樹(1949〜1992)、現在は5代目小原宏貴氏。

*墓所正面に平家之墓、墓石右面に俗名・没年月日が刻む。左側に平こま碑が建ち、右側に歌碑が建つ。


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