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たづけ さだあき

田付貞明

たづけ さだあき

1895(明治28)〜 1977.5.13(昭和52)

大正・昭和期の実業家、東京天草郷友会会長

埋葬場所: 6区 1種 16側

 熊本県天草郡苓北町出身。旧姓は吉村。田付家9代目として相続。
 実家は経済的に裕福な家ではなかったが、尋常小学校を卒業後、富岡小学校で代用教員として教壇に立ち貯金をして、兵庫県立工業高校の電気科に進学。大正期に上京して、研究所や商社に技術者として勤務した。
 1938(S13)株式会社昭和照会(昭和鋼業の主としてアルミ製鋼製品の販売)、日本航空機株式会社(三菱工業名古屋工場に委託され航空機部品の製造:海軍指定工場)、日本クラット鋼業株式会社(ステンレスと哲との合板法の特許を取得、その製造)、富岡温泉株式会社、東日建物株式会社など当時の新産業でベンチャー型の会社を次々に起業し実業家として活動した。
 実業家として活躍する一方で、'39(S14)周囲の依頼に応え、学生寮(天草養正寮、東京都杉並区)を天草学生会へ寄贈(借地:約108坪、建物:木造2階建約60坪)。これを機に、東京天草育英会創設へと発展した。
 '40.4(皇紀2600年)には、郷里の天草郡教育関係者の要請により、天草郡教育会に2階建て1棟「興亜寮(図書室)」を寄付され、天草上級学校入学準備所として活用された(教職員会館を経て、現在は天草文化交流館)。'41.4 熊本県知事の雪沢千代治の要請により富岡に「熊本県立漁民道場」の建設費及び同校宿舎建設費を寄付した。漁民道場は後に熊本県立水産高校となる。
 終戦直後、'45.8 混乱期、苦難の生活を互助するために「奉仕の心(お布施の心)」を理念とした「東京天草郷友会」が発足され、その初代会長に就任。
「お布施とはお金を出すことのみではない。労を奉仕することです。労を奉仕できないときにお金で償うことです。」と語っている。
 '59 学生寮の老朽化により取り壊し跡地を売却。'64 売却資金にて、財団法人東京天草育英会(現在は一般社団法人)を創立し、奨学金支給事業を開始。この取り組みは、極端な低金利化により基本財産の金利だけでは運用資金を賄えなくなり活動休止をせざるを得なくなったが、2009(H21)天草所在の高等学校卒業生、天草出身関東在住者等の有志からの賛助寄付金を募って活動を再開することになり、賛助寄付金募集活動を開始するとともに、天草の各高校へ奨学生の募集を開始。2011奨学金給付再開。現在は関東に進学した熊本県天草地区(天草市、上天草市、天草郡苓北町)の高校卒業生のうち、学業、スポーツ、文化、芸術等の才能に秀でた学生の皆さんに対し、育英奨学金を給付し、社会に有為の人材を育成することを目的に活動している。なおこの奨学金の特徴は貸与ではなく給付。
 現在まで繋がる慈善活動より、貞明は奉仕を理念とした天草人“東京天草育英会創設の父”と称されている。なお、'61着工が決定し、翌年より着工され、32億円の事業費を投じ、'66.9 完成した「天草五橋」の着工建設にあたり、建設省と掛け合うなど多大なる貢献をした。享年82歳。

<天草郷友会会報(第2、3、92号)など>


墓所

*墓石は和型「田付家之墓」。裏面は「昭和十九年六月 田付貞明 建之」と刻む。右側に墓誌がある。墓誌の筆頭に田付家代々を記す刻みがあり、田付家は初代を田付富景とし、6代までの墓前は兵庫県揖保郡龍野町(たつの市)の常照寺である旨が刻む。多磨霊園の田付家は7代目田付七郎以降が眠る。貞明は9代目。戒名は清観院厚徳日貞居士。行年は83才と刻む。


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