千葉雄太郎は通称。墓石には雄太郎と刻む。父は松平大和守家臣の千葉新六郎忠助。新徴組は庄内藩が幕府から預けられた江戸市中見廻組で、庄内藩家老・松平親懐(権十郎)が隊長として尊王攘夷運動を続ける浪士たちを取り締まっていた。
1865(慶応1)12月12日夜、羽賀軍兵衛(同墓)・中村常右衛門(同墓)とともに江戸市中を見回り中、神田明神町で暴行をはたらいた幕府小普請・石川又四郎配下の永島直之進を討った(殺害)ことから、12月26日に21歳の若さで自刃した。芝清光寺に葬られたのち、多摩霊園へ改葬された。
<幕末維新人名事典> <幕末維新全殉難者名鑑> <MATHU様より情報提供>
*墓所は正面に千葉家之墓、左側に千葉雄太郎、羽賀軍兵衛、中村常右衛門の墓石が並んでいる。他に弟の千葉弥一郎も眠る。
*千葉弥一郎 鶴鳴 新徴組士 出羽庄内藩士。千葉雄太郎の弟で、兄の死後に新徴組へ入隊した。江戸取締りを経て、1868(慶応4)3月、庄内へ戻って三番隊に配属された。
同僚に、沖田総司(沖田総次郎)の義兄弟・沖田芳次郎が加わっている。1870(M3)佐竹義堯の推薦で鹿児島へ留学し、1872(M5)松ヶ岡の開墾をはじめた。
1874(M7)新徴組裁判に出廷して禁固90日の刑を言い渡されるが、その後、警視庁に入って山形県警部となった。昭和になって戊辰戦争の生き証人とよばれ、庄内史料研究会顧問となった。
*中村常右衛門 信光 新徴組。甲斐の人。慶応元年12月26日切腹。35歳。
*羽賀軍太郎 恭忠 新徴組。三河の人。28日飯田橋屯所で自刃。25歳。
新徴組酒井左衛門尉配下に属し江戸の警衛に当たる。不逞を戒めて市民に信頼された。時に幕下の士、軍太郎の声望を嫉む。幕臣永島直之允出仕の途次、馬上から軍太郎らの行列を干し陣笠を打って悪言をいい駆け去ろうとした。
軍太郎らは直之允を馬上から引き落とすと斬殺した。直之允の族戚強訴。左衛門尉は配下の監督疎慢だったと謝して新徴組の付属を辞す。軍太郎らは自分らの行為で同列の進退に累を及ぼすことを恐れ、江戸飯田町新徴組屯所内で自刃した。
※現在は「千葉家之墓」の墓石のみが建ち、左隣にあった3基の墓石はなくなりました。
第198回 江戸の新選組 新徴組 切腹 千葉長胤 千葉雄太郎 お墓ツアー
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