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そが まさし

曾我正史

そが まさし

1906(明治39)〜 1987.3.4(昭和62)

大正・昭和期の映画監督、脚本家、プロデューサー

埋葬場所: 4区 1種 55側

 旧芸名は曾我正男(そが まさお)、別名に長間霞窓、振津嵐峡を名乗った。
 大倉商業学校(東京経済大学)卒業。帝国キネマ演芸に入り、脚本や助監督を務めた。記録に残る初作品は、'26.12.1(T15)『侠客』(押本七之助監督、市川百々之助・霧島直子主演、帝国キネマ演芸芦屋撮影所製作)。以降、押本七之助に同行し脚本を提供した。
 '27.2(S2)マキノ・プロダクションを退社した市川右太衛門が奈良に、市川右太衛門プロダクションを設立したのを機に、押本と共に入社。同社の第1回作品として押本が監督した『侠骨漢 笑ふな金平 前篇』に脚本として参加。同年末に押本と共にマキノ・プロダクションに移籍。押本の監督『三日大名』(主演:片岡千恵蔵)の脚本を担当。
 '28.5.10片岡千恵蔵がマキノ・プロダクションを退社して片岡千恵蔵プロダクションを設立し参加。同.8.31公開『愛憎血涙』ではオリジナル脚本を採用した監督デビュー作である。同社の稲垣浩、伊丹万作両監督とも病弱であったため、総務部長の傍ら、ピンチヒッターとして監督業を兼務した。
 日活と配給契約が決まった際、総務部であった曾我の名前を出すわけにもいかなかったため、稲垣監督が「そがまさお」の名を逆さにして、「長間 霞窓(おさま かそう)」という名を命名し、一時その名前を名乗っていた。 また、'29.3.6公開された八尋不二オリジナル脚本による『ごろん棒時代』からは、ドイツの映画監督のフリッツ・ラングをもじり、加えて京都嵐山の老舗温泉旅館「嵐峡館」を定宿にしていたことから「振津 嵐峡(ふりつ らんきょう)」という筆名を用いるようになった。
 '29.1 千恵蔵プロダクション撮影所(千恵蔵映画撮影所)が開設され、代表の千恵蔵と事務方として二人三脚で経営した。トーキー映画なども手掛けたが、'37.4 プロダクションごと日活京都撮影所(所長は藤田潤一)に吸収されることになり、同社に移籍して同撮影所製作部長に就任した。 これにより脚本家・監督業は廃業した。'42.1.27 戦時統合で大映が誕生(永田雅一が代表取締役社長)し、日活京都が名称を変更した大映京都撮影所の取締役所長に就任した。
 戦後も大映に勤務し、取締役製作局長、常務取締役、専務取締役を務め、永田社長のもと製作畑を掌握した。その後、大映専務取締役、東京第一フィルム代表取締役等を歴任した。 '58.3 大映での専務職を退任し、千土地興行社長の松尾國三、京王帝都電鉄社長の三宮四郎と共に「第7の映画会社」として「日映」を立ち上げるべく画策、設立を発表したが、京王帝都電鉄から資本金が入金されず、三宮も行方不明になり、2作を製作して同社はとん挫した。
 '48〜'61ニッポンシネマコーポレーション取締役会長、'62.3イタリフィルムの営業権譲渡を受けて、'63.7 東京第一フィルムを設立。洋画を買い付け日本での配給を行った。'76.5.1第一フィルムと改称し、代表取締役を務めた。享年80歳。

<映画事業名簿>
<人物レファレンス事典 日本編など>
<森光俊様より情報提供>


墓所

*墓石正面は「曽我家」。戒名は梅峰院大徳正覚居士。



第482回 伝説の映画プロデューサー 第7映画会社設立
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