霊名はアントニオ。1939(S14)カトリック浅草教会を皮切りに、1940.10〜'42.1 カトリック神田教会 第8代主任司祭を経て、カトリック大森教会 第6代主任司祭に着任。
戦況が厳しくなるにつれ教会活動は難しくなり、大森教会近隣の京浜地帯は疎開区域となり空襲も激しくなった。'45.5.29正午近く、一帯はB29爆撃機の焼夷弾集中攻撃を受け、ゴシック建築の聖掌は付近の民家と共に焼け落ちた。聖堂は3日間燃え続け鐘楼の鐘も熱で溶けた。近くの埋め立て地に捕虜収容所があったが、下山神父は捕虜たちの救霊のため収容所に通い続けた。終戦後、開放された捕虜たちは本国に帰り、日本の教会復興のため多大の援助をした。そのため大森教会は、戦後復興した東京教区第1番目の教会となった。
また戦後、京浜工業地帯の焼跡の工場の一角に積まれた鉄などの金属類の中から、信徒の一人が教会の鐘らしいものを見つけ下山神父に報告。それは神学校にあったこの「お告げの鐘」であった。土井辰雄大司教から戦後の教会再建復興第1号として脚光を浴びていた大森教会で使用する許可をもらい、'48.12.5 献堂式の日にお告げの鐘の音を響かせることができた。
'49.4.21 本所カトリック教会 第5代主任司祭に着任。以後、'94.4(H6)まで45年間の長きにわたり司祭を務めた。着任当初の本所教会の信徒は約30世帯125名であったが、'51.6.24 現在の聖堂が再建され土井辰雄大司教による献堂式が行われた際には信徒数は409名に増えた。
'54.11.1 教会創立75年記念ミサを行う。'64 銀祝記念出版より『われらのおやじ 下山神父の横顔(1939-1964)』が刊行される。下山神父は痩せぎすで、牛乳ビンの底のようなレンズのロイド眼鏡をかけていたとある。
'79元旦から翌年('80.2.3)までを本所教会創設100周年として記念した。'91(H3)ベテラン神父が披露する教会裏話『神のあわれみは永遠−司祭生活50年の思い出』を出版。'94(H6)在位45年を機に退き、杉田栄次郎が第6代主任司祭に譲る。二年後に帰天。享年86歳。長きにわたる司牧の労苦に感謝して本所教会にて盛大な葬儀を執り行った。