神戸市生まれ。東大法学部をへて1925(T14)内務省に入り、佐賀県書記官、警察等を主とし、米軍の沖縄侵攻が目前となった45(S20)に沖縄県知事を拝命、軍と共に沖縄戦に参戦、沖縄南部の激戦地で消息を絶った(遺骨の発見はない)。
前任知事泉守紀は沖縄戦前に離県したが、嶋田は死を覚悟で赴き、疎開と食糧確保に尽力、沖縄戦下の国民の犠牲を最小限にくいとめようとした努力は高く評価され、'51島民により摩文仁岳に「島守の塔」が献ぜられた。
嶋田叡の出身地である兵庫県と、彼が最後を遂げた沖縄県は友愛提携を結び、「沖縄の島守」は両県ではいまも語り継がれている。
<コンサイス日本人名事典> <仲村顕様より情報提供>
*現在刊行されている人名事典の類では、全て没した月を六月としているが、この事実を知った医師・長田紀春氏(沖縄戦のとき予備軍医として従軍、嶋田叡と同じ壕の中にいた)は著書『福木の白花』(2003年)で、「今では私が、知事にお会いした最も最後に近い人」という断りを入れ、嶋田叡に接した最後の情報として次のように記述している。「七月五日の夜、八時過ぎであっただろうか。頭に白い包帯を巻かれた荒井警察部長を従えて、カーキ色の服に巻脚半をされ、元気な足取りで与座、仲座の方へと、荒れ果てた摩文仁ヶ原を踏み分けて、進んで行かれた島田知事の御最後は一体いずこの地であろうか。」ここではこの手記に基づき没した月を七月に改めた。
*嶋田家墓所内には、嶋田家之墓と左隣に嶋田叡の個人墓が建つ。遺骨が発見されていないために遺髪等が埋葬されていると思われる。
島守の塔
第136回 沖縄戦時の沖縄県知事 嶋田叡 お墓ツアー
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