岐阜県出身。1909(M42)東京帝国大学卒業。内務官僚として、福岡県事務官補、愛知県理事官、岩手・長野各県警察部長などを経て、1918(T7)から行政裁判所評定官をつとめ、'42同部長。「軍閥はその本分にもとり政治、産業を壟断し、独善専横をきわめ、戦争終結の時期と方法につき無計画・無方針である。大東亜戦も完全にわがほうの負けだ。軍閥が自分勝手な戦争を始めて国民に迷惑をかけるのはけしからん」と太平洋戦争中に軍部批判をしたため、'45.5.1東京憲兵隊に陸軍刑法違反で拘束される。同.5.23保釈。東京刑事地裁の禁固10ヵ月の有罪となるが、上告中に敗戦し免訴された。
'46行政裁判所長官となるが、同裁判所が廃止され、以降、臨時法制調査会委員、地方制度調査会委員、公職資格訴願委員会委員長を務めた。'47最高裁判所判事となる。'52退官し、弁護士となった。また法政大学講師なども務める。
'58.3.19憲法調査会総会に参考人として出席し、「昔の行政訴訟は職権主義で国費で費用を負担したが、今日は普通の民事訴訟と同じなので、貧乏人ではとうてい国を相手に行政訴訟を起こすことができない」と行政訴訟の問題点を指摘した。また、自身が最高裁判所判事を務めていた時の'49(S24)に行われた最高裁判所裁判官国民審査で不信任率4.01%の歴代最低記録を出した過去がある中で、最高裁裁判官に対する国民審査制度について聞かれると「意味がない」と廃止論を述べた。胃がんのため逝去。享年90歳。