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さとう まさじろう

佐藤政次郎

さとう まさじろう

1866(慶應2.1.29)〜 1938.4.1(昭和13)

明治・大正期の朝鮮営農技師

埋葬場所: 11区 1種 10側

 伊予(愛媛県)出身。伊予吉田藩士の佐藤新三の二男として生まれる。愛媛県師範学校を経て、慶應義塾大学を卒業。大阪毎日新聞に入り、累進して経済部長となる。
 この間、パリ万国博覧会に特派せられた後、欧米を歴遊する。帰朝の後、日露の風雲急を告ぐるの秋、朝鮮国境に駐在した後、南鮮各地を巡り、農業経営で有望なるを鼓吹せしが、困りとなり、図らずも同郷の先輩で実業家の村井保固翁の支援を得、多年の文筆生活を拠ち、自ら渡鮮するに至る。
 1905.6(M38)全羅北道群山の地(韓国群山市)に居とし、営農を従事す。'10日韓併合後も引き続き居し、以来30有余年、終始一貫精励の功空しからず、遂年業績進展して素志を達成するに至れり。朝鮮における農業経営の援助は九〇万円に達したという。
 教育会、図書館、中学校等の設立。巨費を投じて育英部を設け、年々多数の人材を養成した。また各種の公職に挙げられ群山府の発展に寄与した。これにより紺綬褒章を下賜せられる。後に東京に居を移す。享年72歳。


*墓石は和型「佐藤家之墓」。裏面は「昭和十一年十月十六日 佐藤敏雄 建之」と刻む。右側に墓誌がある。墓誌には佐藤政次郎と妻は夕子(M4.1.3-S27.9.5)の俗名・生没年月日・享年が刻む。墓誌にはこの二名のみの刻みであり、以降は「佐藤政次郎の略歴」が刻み、「昭和15.3.16 坂口禎蔵 謹書」と刻む。

*墓誌には佐藤政次郎の生年が「慶應元年一月二十九日生」と刻むが、慶應元年は四月七日から始まるのが正しく、一月生まれであれば元治二年もしくは慶應二年が正しい。享年七十二歳から推測し、慶応二年で紹介することにする。


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