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さとう まさゆき

佐藤正之

さとう まさゆき

1865(慶応1.11.4)〜 1929.9.9(昭和4)

明治・大正期の中央大学理事、中央大学中興の祖

埋葬場所: 19区 1種 12側

 陸奥国磐井郡一ノ関村(岩手県西磐井郡一関町:一関市)出身。坂本正利の3男として生まれ、名は武治と名付けられた。旧姓は坂本武治。
 1883.7(M16)一関小学校の教職に就くが、1885英吉利法律学校(後の中央大学)最初の学生として入学。3年間の修学期間を経て満了し最初の卒業生となる。卒業後、1889.1 母校に就職し、講義録や大審院判決録などの編集を担当した。1892いったん学校を離れたが、翌年には復職した。
 1898 岩手県胆沢郡水沢町(水沢市)の佐藤佐七の次女の利尾と結婚し、婿養子となって佐藤正之に改名した。
 1903 幹事に就任し学員として初めて同校の経営に携わった。英吉利法律学校は、東京法学院、東京法学院大学、中央大学と名称を変えながら事業拡大を行っていたが、経営に腐心し大学が財政難に陥った。そのとき、佐藤は自分の土地を売却するなど私財を投げうって寄与し経営を支えた。教員の給料未払いを補填し、職員たちに対しても生活を助けて尽くしたという。結果、大学が盛んになった時には全てを売りつくして一文無しになった。
 '21(T10)理事に就任。同.11 中央大学として「佐藤正之君在職三十年記念会」を開催し貢献を讃えた。同級生で法曹界重鎮・政治家の花井卓蔵をはじめとする発起準備会や実行委員会を中心に、寄付金の募集や記念行事の準備が進められ祝賀会を開催。寄付金は約70人から6,200余円集まり、佐藤正之の肖像画二面および金杯一組が贈呈された。記念会の式辞で花井は佐藤を「至誠一貫の人」であり、「母校の事務室に君在りと想い到る毎に無限の信頼をもたらし、また恒久の安心を得た」と述べた。
 '27(S2)名誉理事に就任。中央大学の危機的状況を支え、日本の法曹界を支える人材育成の環境整備、学校経営に尽力した。享年63歳。葬儀は中央大学駿河台校舎大講堂で学葬式が催され、会葬者は三千人に及んだ。その後、郷里の里水沢(奥州市)大安寺にて埋骨式が行われた。

<タイムトラベル中大125:1885→2010>
<中央大学創立125周年記念サイトなど>


墓所

*墓所正面に「中央大学名誉理事佐藤正之先生墓」。右側に「佐藤正之先生第十三回忌追憶碑」が建つ。墓石と「初亭翁」と題された墓碑の筆は林頼三郎学長によるもの。戒名は積徳院初亭正之居士。妻は利尾。墓所右手側に和型「高橋家之墓」、左に高橋家の墓誌が建つ。

*1941(S16)13回忌を機に、佐藤への追憶の念止みがたしとする学員有志が追憶会を開催し、ここ多磨霊園に分骨・墓碑を建之することになった。甥で中央大学法学部教授の高橋勧(すすむ)との関係で、同家墓域内に設けられた。なお同墓に眠る高橋輝義(1938-2008.10.24)は中央大学理事・事務局長を歴任、大学人事研究会(人事・組織合同研究会)で座長などを務めた人物である。

*佐藤正之の息子の佐藤佐一郎は、弁護士であり、中央大学教授を務めた。


【英吉利法律学校(イギリスほうりつがっこう】
 1885(M18)増島六一郎・菊池武夫・穂積陳重らによって設立された私立法律学校。英米法を基にする法体系構築を目指して開校。当時の校舎は東京府神田区錦町。当時の日本には民法がなく、法整備と法曹の育成が図られていた。同時期に開校した東京専門学校(早稲田大学)、東京法学校(法政大学)、専修学校(専修大学)、明治法律学校(明治大学)を五大法律学校という。
 事業拡張のため、1889.10「東京法学院」と改称。法典論争では法典実施延期論を主張。1903.8 専門学校令準拠の「東京法学院大学」と改称し、1905.8 現校名「中央大学」と改称。中央大学の名称の由来は日本学術の中枢となる意と、創立者の増島らが留学し、自由主義と英米法を学んだ英国ミドルテンプルを重ね合わせたとされる。


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