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ささき くに

佐々木 邦

ささき くに

1883.5.4(明治16)〜 1964.9.22(昭和39)

明治・大正・昭和期のユーモア作家、翻訳家、英文学者

埋葬場所: 13区 1種 45側

 静岡県駿東郡清水村(清水町)出身。建築技師の佐々木林蔵(同墓)の長男。弟の順三は後に立教大学総長となる。3歳の時に父の林蔵が西洋建築技術習得ののため全国から選抜された16名の大工らと共にドイツに留学(3年間)。6歳の時に父が帰国し、内務省に奉職することになったため一家で上京。
 1895(M28)鞆絵小学校高等科2年終了。正則中学校に入学するが、まもなく退学、海軍予備校に入学。母の はる(同墓)が入水自殺未遂を起こしたため、父は官吏を辞め、民間に移る。母と三人の弟は、沼津に帰郷した。1896 海軍予備校を退学し、早稲田中学の1年に再入学。1898 肋膜炎のため、2年次終了時で早稲田中学を退学。同年、青森での連隊司令部建築のため単身赴任をしていた父の林蔵が建築を巡る不正の疑いで逮捕拘留される(のち無罪)。
 1899 健康が回復したため、青山学院尋常中等部4年次へ編入。1901 青山学院中等部卒業し、高等部へ入学し秋まで在籍したが、翌年、慶應義塾大学理財科予科に入学。英語に優れ、また生涯の友となる万代順四郎と知り合う。'03 慶応義塾予科を2年で退学、明治学院高等学部2年に編入。'04.12 筆名を佐々木春川として『翁の面』を白金学報に発表。
 '05 明治学院高等学部卒業。引き続き研究生として在学。アメリカ人に日本語を教授し、その交換で米語も学ぶ。同.11 水戸市フレンド教会附属英語学校教師として赴任。'07 韓国釜山居留団立商業学校の英語教師として赴任。下宿先の主の親戚の娘、服部小雪と知り合い、翌年結婚。また、筆名を佐々木生として『釜山まで』を白金学報に発表し、『いたづら小僧日記』の連載を開始した。翌年『禁煙』、『看病』を白金学報に発表。'09 翻訳『法螺男爵旅土産』、'10 翻訳『各国滑稽小説』、'11 翻訳『独身者の独思索』と立て続けに出版。この間、'09『おてんば娘日記』でデビューし、『ドン・キホーテ物語』『続いたづら小僧日記』『当世良人気質』『当世細君気質』『グッド・ボーイ日記』など自筆も精力的に執筆。
 教壇に立ちながら、執筆活動を続け、'13(T2)より短編小説を書き始める。主な作品に『幽霊』『主筆先生』『一々御尤』『敵と味方』。'16 翻訳『ユーモア十篇』を刊行。
 '14.8 第六高等学校教授に昇進し、'17.9 慶應義塾大学予科教授に就任。'19 明治学院高等学部講師を兼任し英語と英文学を教えた。
 '18 シムスの翻案『主婦采配記』を主婦之友に連載をし、'19 世界少年文学名作集第1巻として翻訳『トム・ソウヤー物語』、'20『珍太郎日記』、'21『続・珍太郎日記』を連載、翻訳『ハックルベリー物語』を出版した。その後も、'22『ぐうたら道中記』、'23『器量』、'24『のらくら倶楽部』『夫婦者と独身者』、'25『好人物』『プラスとマイナス』『親鳥子鳥』『主権妻権』、'26『娘の婿たち』『笑いの大国』『小女権論者』『文化村の喜劇』『ゴンドラ村』、'27(S2)『世間相人間相』『次男坊』『脱線息子』『苦心の学友』、'28『明るい人生』『あべこべ物語』『愚弟賢兄』『使ふ人使はれる人』『短所矯正同盟』『奇物変物』『村の成功者』『新家庭双』、'29『夫婦百面相』『笑の天地』、'30『新家庭双六』『村の少年団』などなど執筆し、『佐々木邦全集』(全10巻、講談社)も刊行された。
 この頃は児童文学とユーモア小説の第一人者として活躍。笑とユーモアある作品は舞台劇でも取り上げられ、新派が上演している。'30-'32「新家庭双六」が明治座、「美人自叙伝」が帝国劇場、「ガラマサどん」が新歌舞伎座、「奇物変物」が明治座、「新婚道中記」が新歌舞伎座、「大番頭小番頭」が明治座、「脱線息子」が明治座で上演された。'35『人生初年兵』がPCLで映画化。その他、'32『少女百面相』、'33『トム君サム君』など多数のユーモア作品を世に出し、翻訳本も多数刊行した。
 '36 徳川夢声(2-1-7-48)、辰野九紫らとともにユーモア作家倶楽部を結成。'37.11 機関誌「ユーモアクラブ」を創刊しユーモア文学の発展に尽力する。'42『佐々木邦自選集』を刊行。'43 雑誌「ユーモアクラブ」の名称が「明朗」に変更させられる。戦時中は家族と共に、沼津市千本緑町に疎開。『正会員生活』『素顔の時代』などを出版したが、執筆活動は停止状態となる。'45 沼津市で戦災を受け、居宅焼失したため、山形県西田川郡温海町五十川に再疎開。
 戦後は疎開先の鶴岡市に留まりつつ、執筆活動を再開したが、'47.12.10 妻の小雪が亡くなる。'48 一家は東京に戻り、翌年より、明治学院大学教授に就任。英文学者として同大学に、'62.3まで務めた。'49 信子を後妻として迎える。
 学生時代からマーク・トウェインを愛読し、『トム・ソーヤーの冒険』などの翻訳にも携わり、国際マーク・トウェイン協会名誉会員でもある。欧米のユーモア作家に影響され、多数執筆。18作品は映画化された。その作風は、良識に裏打ちされたユーモアに富み、昭和初期のサラリーマン階級を舞台に、家庭的な笑いに焦点を当てている。また落語風の駄洒落(だじゃれ)に終わりがちだった日本のユーモア小説に、初めて近代的な性格を与えたと称されている。
 '61 児童文化功労賞受賞。'62 紫綬褒章。'63 日本聖公会東京三一教会で主教の弟の二郎から洗礼を受ける。翌年、心筋梗塞のために逝去。享年81歳。没後、'74『佐々木邦全集』15巻(講談社)が出版された。

<講談社日本人名大辞典>
<小学館 日本大百科全書>
<佐々木邦の部屋「佐々木邦年譜」など>


*墓石は和型「佐々木家累代之墓」、右面「昭和七年六月 佐々木林蔵 建之」。左面「昭和三十六年十一月 沼津より此地に移す 佐々木邦」と刻む。左右に墓誌が建ち、佐々木邦は左側の墓誌に刻む。

*小平霊園の青山学院関係者廟にも昭和40年に佐々木邦の分骨が納められている。



第498回 朗らかに笑え ユーモア小説の第一人者
トム・ソーヤーの冒険を日本で初めて紹介 佐々木邦 お墓ツアー


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