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さかもと きえん

坂本葵園

さかもと きえん

1828.9.9(文政10)〜 1881.12.19(明治14)

幕末・明治期の儒者、漢詩人

埋葬場所: 8区 1種 5側

 名は亮、字は亮平。葵園は号。淡路三原郡上堺村の人。
 はじめ僧となり、炬口浦成願寺の主となって白蓮と号した。少にして学を好み、岡田鴨里・河村杏村に師事。 明治維新に際して、名教を興すを己れの任とし、僧籍を捨て儒をもってたち、大阪に出、杏村の塾をつぎ、その姓をなのり塾を白蓮池館となずけた。毎日放課後、淀川の沿岸を散歩し、詩を考えた。 両拳を肩の辺に入れた一種奇妙な容貌は、一見して葵園とわかったという。のち塾を杏村の子・春?(馬+風)にかえし、本姓坂本に復した。 かつて村上仏山の塾に入り、業成って江戸に赴き、大沼枕山らと交った。藤沢南岳・土屋鳳洲と親交し、かつて歳寒社をおこし、風教の維持に努めた。 著書に『白蓮池館詩鈔』付二篇・三篇三巻、『白蓮池館遺稿』一巻がある。死後、門人が文節居士とおくりなし、大阪市南区梅松院に葬られるが、多磨霊園に改葬された。

<和漢詩歌作家辞典>
<MATSU様より情報提供>


墓所

*墓所内には「坂本葵園」と刻む墓石があり、右面に簡略歴が刻む。また、墓誌もあり、墓誌の方には坂本亮平とある。

*人名辞典には「坂本」となっているが、墓石には「阪本」となっている。墓正面「葵園阪本先生墓」、その他の面には、事績が刻されている。 墓誌には「坂本亮平 明治十四年十二月十九日歿 享年五十五才」。墓石は古く、大阪から移転されたものである。


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