淡路国三原郡堺村(兵庫県洲本市:淡路島)出身。中貞吉の四男として生まれ、後に河野家の養子となった。名は亮、字は亮平。葵園は号。別号に白蓮居士。
はじめ僧となり、淡路島内の炬口浦の成願寺(じょうがんじ)の主となって白蓮と号した。学問を好み、岡田鴨里・河野杏村・村上仏山に師事。さらに江戸で漢詩人の大沼枕山らと交流した。明治維新に際して、名教を興すを己れの任とし、僧の籍を捨てて儒教の道に行くことを決断して大阪に出た。
1879(M12)一族の坂本(阪本)家を再興し、葵園坂本亮平と称した。翌年、亡くなっていた師匠の河野杏村(1811-1877)の塾を継ぎ、1880 大阪伏見町に私塾「白蓮池館」を起こした。
毎日放課後、淀川の沿岸を散歩し、詩を考えるのが日課だった。著書に『白蓮池館詩鈔』『白蓮池館遺稿』がある。しかし、私塾を起こした翌年末、逝去。享年53歳。塾は杏村の子が継いだ。没後、門人が文節居士とおくりなし、大阪市の梅松院に葬られた。後に多磨霊園に改葬された。