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さえき たかお

佐伯孝夫

さえき たかお

1902.11.22(明治35)〜 1981.3.18(昭和56)

大正・昭和期の記者、作詞家

埋葬場所: 21区 2種 21側

 東京麹町出身。旧姓は佐伯。本名は和泉孝夫(いずみ たかお)。父の佐伯仲蔵(同墓)は梅田雲浜の研究家として知られ多くの著作物を出している。
 早稲田大学文学部仏文科卒業。在学中に西條八十に師事し。1926(T15)浅草の常盤座に入り文芸部員として作詞活動をする一方、西條八十が主宰する雑誌「白孔雀」「愛誦」に抒情詩を発表して少女に人気を得た。'31(S6)に国民新聞社(現在の東京新聞社)入社、'37東京日日新聞(毎日新聞社)へと移る。記者をしながら作詞を続ける。
 流行歌のデビューは、'30.8コロムビアの『浅草紅団』で、'32ビクターに移り、'33藤山一郎の歌『僕の青春(はる)』がはじめてのヒット作品となった。師匠の西條八十がコロムビアへ移った後、'39ビクターレコード専属作詞家となり以後ヒットメーカーとなる。戦前は、佐々木俊一と組み、灰田勝彦に『野球小僧』『新雪』『燦めく星座』や小畑実に『湯島の白梅』『勘太郎月夜唄』『高原の駅よさようなら』などの作品を提供した。
 戦後は、作曲家の吉田正とコンビを組み、フランク永井、松尾和子に代表される都会の哀愁物、橋幸夫、吉永小百合などに代表される青春歌謡は元気ハツラツ、カッコいい若者を歌い上げ、橋幸夫の股旅歌謡ではイキでイナセな侍や、渡世人の悲哀、世の中ままならぬ事のやるせなさなど広いジャンルで作風でヒットを飛ばした。やけっぱちな心情でもド演歌にならず、どこか上品な詞となっているところが大衆に愛された。
 主な作品は『有楽町で逢いましょう』、『銀座カンカン娘』、『東京ナイト・クラブ』、『潮来笠』、『恋のメキシカン・ロック』など約2400作品ある。'61『磯ぶし源太』 (作曲:吉田正、歌:橋幸夫)、『白い花のブルース』(歌:平野こうじ)で第3回日本レコード大賞・作詞賞。翌'62『いつでも夢を』(作曲:吉田正、歌:橋幸夫、吉永小百合)で第4回日本レコード大賞を受賞。'69第11回日本レコード大賞・特別賞、'80.12.31第22回日本レコード大賞・特別賞を受けた際に電話出演したのが公の場での最後の出演となった。紫綬褒章勲四等旭日小授章。食道癌のため逝去。享年78歳。立教大学内にある「鈴懸の径」(すずかけのみち)歌碑は有名である。

<日本芸能人名事典>
<講談社日本人名大辞典など>


墓所

*墓石は和型「佐伯家之墓」。右側に墓誌がある。戒名は瑞龍院聖山孝照居士。紫綬褒章勲四等旭日小授章の刻みもある。「和泉」の刻みはない。父の佐伯仲蔵には正五位勲三等と刻む。母はタネ。妻は冨美子。

*正墓所は九品寺(葛飾区堀切6-22)「和泉家之墓」。

*父の佐伯仲蔵(1866-1953)は『梅田雲浜遺稿並伝』などの梅田雲浜を研究・編集した作品を多く出しているが、他にも『遠湖先生編著品藻録』や、内田周平と共著で『三方原戦記』なども出している。なお、佐伯仲蔵の没年を1949としている著作物が多いが、墓誌には1953没となっている。


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