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のじり よしあき

野尻与顕

のじり よしあき

1885.5.17(明治18)〜 1960.3.22(昭和35)

大正・昭和期の医師、教育者(舞台芸術学院)

埋葬場所: 5区 1種 25側

 山形県出身。東京豊島区に野尻医院を開設し、医師として活動。産制運動を通じて社会運動家に多くの知己を持つ。
 1945(S20)復員した次男の野尻徹(同墓)は、徹の妻の昌子と力を合わせ、また与顕の支援を受け、早稲田大学演劇研究会を母体として、池袋の廃虚の中に「スタジオ・デ・ザール」を開設した。 しかし、'48.1.7 徹は26歳の若さで急逝。与顕は息子の演劇への思いを潰えぬように、この志を生かすため、同年.9.13、私財を投じて若者が演劇に打ち込める場「舞台芸術学院」を創立した。自ら初代校主となり、学長に秋田雨雀を招く。
 「地に落ちた一粒の麦、徹死して幾百幾千の 舞台人となって実るであろう事を」。創設の翌年、俳優養成を目的とした個人立の各種学校として都知事の認可を受ける。
 舞台芸術学院とは舞台芸術専門課程のみが設置されたわが国唯一の専門学校である。世界にも類をみない60年以上の伝統と実績を持つ演劇学校として多彩なカリキュラムを通じ、専門性と社会性を持ったアーティストの育成を目指している。 卒業生は演劇、ミュージカルはもとより、声優、歌手、ダンサー、コメディアンから、劇作家、映画監督、プロデューサーなどさまざまな人材を輩出し、1万5千人を超える。 代表的な卒業生に、伊丹十三、市村正規、五木寛之、うつみ宮土里、ベンガル、もたいまさこ、役所広司、山田洋次、李麗仙、渡辺えり子、矢崎滋らそうそうたる顔ぶれがあり書ききれない。

<舞台芸術学院HPなど>


*納骨堂風の墓石に「野尻家之墓」。左側に十字の中に「墓誌」とある墓誌が建ち、野尻与顕は当主と刻む。 舞台芸術学院創設のきっかけとなった次男の徹も与顕次男と続柄が刻む。妻は於市。他に長男の与市、長男の妻の喜久代も眠る。「1975年野尻昌子これを建てる」と刻む。


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