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にわ すきひこ

丹羽鋤彦

にわ すきひこ

1868(明治1.6.19)〜 1955.1.18(昭和30)

明治・大正・昭和期の大蔵省技師、
港湾工学者、土木事業家

埋葬場所: 1区 1種 6側

 東京出身。内務省神祇官・鎌倉鶴岡八幡宮宮司の丹羽与三郎房忠・ハツの次男として生まれる。代々は尾張士族で、戦国時代に織田家に仕えた武将丹羽氏の流れである。丹羽与三郎房忠は尾張藩士平尾家から丹羽家のハツに婿養子。なお、兄は海軍少将の丹羽教忠。妹の貞子は海軍大将の山屋他人に嫁ぎ、雅子妃の曾祖母にあたる。1895分家。
 1889(M22)東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。同年に内務省に入省。最上川、木曽川の整備・近代化を手掛けた。その後、築港を管轄する大蔵省に転じる。大蔵省臨時建築部第二課長横濱支部長を経て、同臨時建築課長となる。
 横浜では明治二十年代初頭以降、近代的港湾施設の整備が急務とされていた。1889.9(M22)安全な碇泊地を確保するため第一期築港工事が下賜され、その後、海運と鉄道を結ぶ海陸連絡施設の建設を目的とした第二期工事が始まる。当時の横浜は生糸を中心とする輸出貿易が急増し、輸出品を運ぶ鉄道と船とを直結する碇泊の繁留設備が求められていた。1898(M31)帝国議会において、明治32年度以降五ヶ年の継続事業として、海面埋立と岩壁築造の経費234万5590円の協賛が得られ着工をみる。
 1899.4(M32)から'14(T3)にかけて新港埠頭の工事が起工された。この埠頭は横浜税関拡張工事として、古市公威の基本計画で、大蔵省臨時税関工事部技師の丹羽が横浜港埠頭工事の施工責任者として実施設計にあたった。丹羽はこの時、臨時横濱港設備委員、臨時神戸港設備委員、港湾調査会臨時委員等の職を兼ねていた。
 この工事のために丹羽は欧米に派遣され視察。帰国後、「ニューマチックケーソン工法」を初採用(あらかじめ地上で下部に作業室を設けた鉄筋コンクリート製の函(ケーソン)を築造するとともに、作業室に地下水圧に見合う圧縮空気を送り込むことにより地下水を排除し、常にドライな環境で掘削・沈下を行って所定の位置に構築物を設置する工法)。日本人だけの工事として、日本初の本格的な繁船岩壁をもつ港湾施設を成功させた。この建設に伴い、上屋・鉄道・道路などの陸上施設も整備。この時に二棟の新港埠頭頭保税倉庫(赤レンガ倉庫)や鉄桟橋(大さん橋)も造られ、横浜港の形成に尽力し、横浜港は近代港湾として誕生した。
 なお海面埋立に先立ち、埋立予定地の水深測量及び地質調査が実施された。結果、突堤予定地の東北にも水深十尺から二十尺間の比較的浅い土丹岩盤が南北方向に確認され、突堤を日本とした凹形埋立及び南北方向の岩壁築造の有利なことが判明した。土丹岩盤の地形に対応して築造されたのが赤レンガ倉庫。突堤岩壁から45度振れている理由はそれである。
 丹羽は後備陸軍歩兵伍長の身分で、日露戦争中は招集対象にあったが、大蔵省の申請によって兵役免除となっている。その理由は横浜港の整備に不可欠な人物とされたからである。
 神戸港その他の築港にも指導的役割を果たす。大蔵省臨時建築部長、東京市道路局長などをつとめた。日本における港湾工学の権威と称される。退官後は、日本水力常務、帝都復興院参与、国会議事堂建設において常任顧問、会計監査院顧問、母校の攻玉社工学校校長を歴任。この他、隅田川河口整備および東京築港の道も開いている。著書に『帝都復興に関する水運問題に就て』(1924)がある。工学博士。従3位 勲2等。享年86歳。

<土木人物事典>
<日本のコンクリート技術を支えた100人>
<横浜・歴史の街かど>
<横浜赤レンガ倉庫物語>
<人事興信録など>


*蔵状の墓に前面「丹羽家之墓」。左側に墓誌がある。

*妻は出石藩士・内務省高官・政治家の桜井勉の娘の●子(●=草冠+賁:しげこ:1874-1952.4.30)。妻の兄は九州帝国大学医学部教授の桜井恒次郎、弟は訳詩家の近藤朔風、叔父は明治女学校創設者の木村熊二。長男の良忠(1897-1923.9.1)は27歳で関東大震災にて亡くなる。次男の良彦(1903-1982.3.5)は鉄道技師。1920(T9)三女の満津子は内務技師・鮫島茂に嫁す。鮫島と親子関係となったことで帝都復興の連携が強固となった。


【象の鼻パーク】
 横浜開港150周年として、2009(H21)開園。横浜の開港広場から、大さん橋へと向かう途中に「象の鼻波止場」がある。この地は、1854.3.31アメリカのペリー提督が黒船に乗って2度目の来日をし上陸した場所であり、1859(安政6)日米修好通商条約により開港場に指定され、横浜で最初の波止場として建設された歴史ある場所。横浜港発祥の地とされる。明治初頭に欧州文明を見学するために日本を旅だった岩倉使節団は、この象の鼻波止場から船に乗って出発したといわれる。象の鼻パークでは「みなとを造った偉人たち」の業績をたたえる人物パネルにて紹介しており、その中で丹羽鋤彦も紹介されている。


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