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にしおか さねた

西岡實太

にしおか さねた

1884(明治17)〜 1945.6.10(昭和20)

明治・大正・昭和期の財務官僚、函館区長

埋葬場所: 14区 1種 9側

 岡山県出身。樺太庁理事官として財務畑でキャリアを積む。東京市道路局庶務課長を経て、37歳の時に北海道・函館に赴任した。'21.4.7(T10)〜同.7.6函館区助役、同.7.7〜'22.7.31函館区長に就任。北海道にも市制が施行されたため、区長を退任した後の8月〜11月まで市長臨時職務代理者に就く。函館市初代市長の小浜松次郎就任に伴い退任し東京に戻った。
 その後、東拓理事を経て、'27(S2)ロシアとの利権協約の下にハンカ湖畔東南十一万デシャチンにわたる水田開拓事業の衝にあたった。ロシアは土地を日本は資本と技術を提供し、沿海州に水田利権会社を創立する事業である。日本勧業銀行調査課長、'35(S10)『我農村経済の実相』を執筆。'36.6満州中央銀行の理事に選任された(〜'38.3)。享年61歳。

<函館市史など>


墓所

*墓石は和型「西岡家之墓」。右側に墓誌があり、戒名は「徳操院殿雄齊實孝居士」。


【函館助役・区長の西岡實太】
 西岡實太が北海道・函館に赴任したのが、'21(T10)の37歳の時である。その後、函館助役、区長へとなっていくが、その過程のゴタゴタが『函館市史』に記されているので紹介する。
 内務大臣から区長候補選挙を督促されていたが、函館区会は結局助役選挙のみで区長候補を選考出来ずにいた。西岡助役の昇任説、新任区長説が飛び交っていたところ、樺太庁で西岡の同僚であった尾崎道庁内務部長が北門倶楽部の議員に西岡昇任を勧めた。'21.6.8(T10)銓衡委員会が開かれ西岡助役の昇任が提案され、続く10日の継続会で無記名投票が行なわれて西岡昇任が多数を占めた。そこで16日に区長推薦区会が開かれたが、西岡助役の昇任に反対する公正会議員の攻勢に押されて、選挙は翌17日に持ち越された。17日の区会は26人の議員が出席して開かれた。松下議長がようやく第1区長候補者の選挙へと進行させて投票が行なわれた。西岡助役は19票(渡辺熊四郎が6票、「ノー」と書かれた無効票が1票)を得て当選した。ちなみに第2、第3候補者は松下熊槌(得票14票)、岡本忠蔵(得票16票)であった。前日の混乱はこの第2第3候補者を明確にしないまま西岡助役の昇任を提案したためであった。西岡は第8代目の区長となった(裁可7月7日)。
 翌年、北海道にも市制が施行されて、西岡区長は市長職務代理者となったが、初の市会議員選挙で彼を推していた北門倶楽部の議員が破れたため、議員選挙直後に辞表を提出して函館を去っていった。


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