東京出身。一高を経て、1929(S4)東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年、高文行政科合格し内務省に入省。静岡県警察部長、鈴木内閣総理秘書官、警視庁保安部長、同警務部長、内務省調査局長などを歴任。
'46.10.23〜'47.4.20官選最後の第42代高知県知事に任命された。10月18日に前高知県知事の吉富滋が県会開会中に脳出血で急逝したため、即日内務部長桝本輝義が知事代理を命ぜられ、10月23日になって後任知事に西村が決定、11月23日新知事によって臨時県会が招集された。
12月21日南海大地震が発生、救援と復興の陣頭指揮をとった。戦災と震災の二重苦を背負い至難の県政担当となったが、ベテラン行政官として健闘した。
時の県政を主導した自由党がその手腕に期待、初代公選知事選挙候補として勝手に立候補届を出したが、「官選知事の横すべりは初の民主選挙を冒とくする」と固辞、ワンポイントリリーフ役に徹した。
'49.1官界を退き、衆議院議員選挙に静岡県1区から出馬し当選(以後、10回当選)。衆議院予算委員長、'60第2次池田内閣の防衛庁長官、'68第2次佐藤内閣の農林大臣をつとめた。
この間、自民党憲法調査会長、政調会長も歴任。'71再び防衛庁長官に就任したが、「中国・国連侮辱発言」で野党と世論から非難されて同年12月更迭された。
'76政界を引退。勲1等旭日大綬章。腎不全で逝去。享年74歳。
*正面「西村家之墓」。左側に「西村直己 妻 妙子 之墓」が建つ。裏面に「西村直己大人命」「西村妙子刀自命」と各々の歿年月日、享年が刻む。西村直己は享年74才と刻む。また「昭和五十八年七月廿八日 福田赳夫 撰 荻野準平 書」として下記、西村直己の略歴が刻む。
明治丗八年十月十日東京に生る。天稟の資質に恵まれ東京帝国大学卒業後 官界に入る。終戦時 鈴木貫太郎総理秘書官、戦後 吉田茂総理主席秘書官を勤め国存亡の激動期に国政に盡瘁す。昭和廿四年一月 静岡県第一区より衆議院議員に初当選。爾来連続十期廿八年に亘り国地方の発展に盡す。この間、農林防衛の各大臣、自由民主党政調会長等を歴任。特に戦歿者遺家族の援護等、その功は枚挙に遑なし。清廉高邁な人格を賛仰し 郷党追慕の至情を此処に表す。
昭和五十八年七月廿八日 福田赳夫 撰 荻野準平 書
*静岡県静岡市の静岡県護国神社に「西村直己先生顕彰像」が建ち、その碑文は墓石裏面の上記と全く同じことが刻まれている。