父は判事を務めた錦織義弘・リウ(共に同墓)の子。1896(M29)中央大学卒業。高等文官試験に合格し、1899内務省に入省。島根県内務部長事務官など様々な役職を歴任し、山形県警務長、長崎県港務部長を経て、新潟県内務部長を務めた。'17(T6)休職、次いで退職し、浪人生活を送っていた。
'22.11.11(T11)第6代 長崎市長に就任。錦織は憲政色濃厚なために退職しただけであったため市長になることを求めた。当時は長崎市長候補者が多く、特に長崎市会政友会が錦織を反対し、政友会派議員連袂退場した中、憲政派と三菱派とのみで選挙を行っての当選であった。激烈な政治上の争いがあったが、錦織が市長に就任後、教育改革を行い、九州最初の鉄筋コンクリート校舎、中等教育免許状所有者で教育実践者を校長にすえた城山校を新設した。また城山地区に市営住宅地をつくった。当時の日本の情況、長崎県・市の情況を見て、教育熱心と政治利用と両用を兼ねた手腕を発揮した。'26.11.10退任するまで4年間市長を在職した。正5位 勲4等。享年82歳。
*墓石は和型「錦織家之墓」、裏面「昭和九年十月建之」。左右に墓誌があり、右側の墓誌の一番最初に錦織幹の父で判事を務めた錦織義弘(嘉永1.10-S9.7.2)から刻みが始まり、正四位勲三等と刻む。義弘の妻のリウ(嘉永5.12-S11.8.5:旧姓は岩城)には勲六等と刻む。錦織幹には正五位勲四等と刻む。幹の妻は音代(M25.9-S48.5.26:旧姓は杉江)。墓所左側にハート形のクリスタルな墓誌碑「眞子 1931.1.17-2022.8.6」が建つ。
*父の錦織義弘は始審裁判所の判事を務めた。始審裁判所(ししんさいばんしょ)とは、1880.7.17公布の治罪法に応じて、1881.10.16従来の地方裁判所が改称されたもの。本裁判所は刑事裁判上は治罪法第二編により軽罪裁判の任にあたった。のちに裁判所構成法では、再び地方裁判所の名称に復した。