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ならさき としお

楢崎敏雄

ならさき としお

1891(明治24)〜 1972.5.29(昭和47)

大正・昭和期の交通経済学者

埋葬場所: 13区 1種 27側

 佐賀県杵島郡出身。実父は医師であった。旧制第八高等学校を経て、1915.7(T4)東京帝国大学英文科卒業。'17更に同大学法学部英法科に入学し、'20同大学卒業。在学時は貨幣・金融論の山崎覚次郎の門下生として、理論経済学、経済政策の研究をした。
 卒業後、大学令により設置許可された中央大学経済学部の教授に迎えられた。就任当初は経済原論を担当していたが、'22以降は専門の交通政策を担当した。'29.4(S4)から二年間、経済学や交通政策の研究のためドイツ・ハイデルベルク大学等に留学。帰朝後は主席教授となる。'33『空中交通論』などの業績によって中央大学より商学博士の学位を授与された。'43日本出版会常務理事に選出された。'45中央大学を退職。
 交通政策研究の他、当時としては珍しい航空政策の研究もおしすすめた。航空政策、交通経済と交通政策、道路政策の研究活動のパイオニア的存在。主な著書に『交通政策概論』『航空政策論』『空中戦争論』『東亜交通論』『東亜交通政策要論』『東亜広域経済論』『大東亜交通論』『広域経済と南方開発』『航空経済政策論』『空中戦争論』など多数ある。
 戦後は、東洋大学教授並びに経済学部長、専修大学大学院教授、国士舘大学教授、城西大学教授を歴任した。'67国際商科大学教授となり高齢をおして教壇に立ち続けた。正5位。享年81歳。

<中央大学における交通論の歴史的展開「楢崎敏雄とその学問」塩見英治 など>


*墓石は和型「楢崎家之墓」。裏面「昭和九年四月五日建之 楢崎敏雄」と刻む。右面は楢崎精一と春原てい の刻み、左面に楢崎敏雄、妻の たい、楢崎敏夫が刻む。楢崎敏雄の戒名は学徳院壽岳経敏居士。戒名の上に正五位とも刻む。行年は83歳と刻む。


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