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なかの ちゅうたろう

中野忠太郎

なかの ちゅうたろう

1862(文久2)〜 1939.9.30(昭和14)

明治・大正・昭和期の実業家
(石油王・中野財閥2代目)、趣味人

埋葬場所: 16区 1種 10側

 越後国蒲原郡金津村(新潟県新潟市秋葉区)出身。父は初代石油王で北越の富豪と呼ばれた中野貫一(1846-1928:鶴堂)。忠太郎は父の貫一が16歳の時の長男である。号は春山。
 中野家は代々庄屋を勤めていた大地主。1804(文化1)父の貫一の曽祖父の次郎左衛門が草生水油(石油)採掘権を買い取り「泉舎(いずみや)」を号した。 貫一は14歳で父を亡くし、その全ての相続を引き継いだ。1873(M6)石油坑法が公布されると新潟県庁に石油試掘を出願、許可を得て、翌年、所有地内で若干の出油に成功。 1886まで停滞するも、塩谷地区で成功をおさめ、3600リットル/日の採油を得るに至る。しかし、1886共同油井が坑法違反として採掘禁止(塩谷事件)。 この禁止の不当性を主張し、県や政府に請願運動を続けるも受け入れられず、他の仲間たちが脱落する中、貫一は一人で行政裁判所へ訴え、1891勝訴して、賠償金35000円を得た。 この間、1888日本石油の創立に発起人として参画。1903最初の試掘から29年目、初めての商業規模の油田を掘り当て、金津鉱場開発の端を開いた。
 この頃、忠太郎は、1893(M26)新潟師範学校卒業後、父の元で油田採掘を助けた。米国より機械堀りを導入し、朝日、柄目木、天ケ沢と事業を拡大。1906中央石油株式会社を設立。 父が初代社長となる。当時の日本は日本石油と宝田石油の二大石油会社があったが、それらに次ぐ石油王国をつくっていくことになる。'09中野合資会社を組織('14中野興業株式会社に改める)。 1910(M43)頃には日産2361キロリットルを産出。さらに、秋田県や北樺太の石油開発にも手を広げ、石油だけでなく、林業、土地開発、農地の開墾などの事業を手掛ける。 一方、'18(T7)100万円の資金で中野財団を設立し、教育や社会福祉事業、小学校等への寄付も行った。
 '20(T9)中央石油株式会社は日本石油に買収され、'28(S3)父の貫一没後、忠太郎が家督を継ぐ。既に石油採掘業は全盛を過ぎていたが、それでも五百町歩を有する県内有数の大富豪には変わりなく、'29(S4)全国長者番付に名を連ね、資産金額が「壱億円」と驚くべき額であった。
 忠太郎は実業家の一面よりも、一級の趣味人としても名を残している。書画骨董では名うての収集家となり、その収集は膨大な数で、中には国宝が12点、重要文化財30点を有した。 父の貫一から二代目の忠太郎に亘り、県下一の庭師を集め、49年の歳月をかけて12,000坪の庭園を築庭したのは有名である。
 忠太郎は当初、「日暮し」の五葉松など最高の名品盆栽に熱中していたが、園芸業者の長尾次太郎に春蘭を勧められる内、いつしか埋没して行き、類の無い珍品、稀少品、優品であれば価格を問わず購入するようになったという。 その買いっぷりは凄まじく、昭和10年代、山採り無銘の海のものとも山のものとも知れない蘭三条に、蘭商達が3千円で寄りつくと、直ちにその4倍の値で買い取ったり、紺覆黄金中透の「錦王冠」を何十万円で売買した蘭商は、一日で大金持ちになったという逸話が残っている。 なお、富貴蘭の品種、「中野覆輪 (なかのふくりん)」は中野忠太郎に由来する名前とされる。数奇者としても茶の湯を持つなど熱心だったという。
 家督を継いで趣味人となって8年後に逝去。享年78歳。没後、'42中野興業は帝国石油に合併される。後に忠太郎の収集品や土地、屋敷などは新潟県新津市(新潟市)に寄贈された。 '89(平成1)一帯は新津市(新潟市)により石油の里として整備され、'97より邸宅及び庭園が財団法人中野邸美術館として「石油王の館」「美術館」「もみじ園」として開放された。

<石油王・中野忠太郎伝>
<「石油王中野貫一」秋葉区役所 地域課>
<春蘭(保育社)など>


墓石、左面

*広い墓所に対して小さな和型墓石が二基。右側の墓石前面中央「中野家先祖代々之霊位」とあり、左右に戒名が刻む。忠太郎の戒名は霊泉院殿春山玄忠居士。妻のウタの戒名は賢性院積屋妙善大姉。右面に夫婦の没年月日、俗名、行年が刻む。妻のウタは大正八年四月八日に46歳の若さで没している。左面に「昭和五十七年六月建之 喪主 中野大三郎」と刻む。左隣の墓石は大三郎の墓石で、妻の秀子のみ戒名等が刻まれている。


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