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なかむら まんきち

中村萬吉

なかむら まんきち

1883.1.22(明治16)〜 1938.5.24(昭和13)

明治・大正・昭和期の記者、法制学者、政治家

埋葬場所: 9区 1種 5側

 香川県香川郡香西町(高松市)出身。中村清二の四男として生まれる。号は香屋。幼少期は父の仕事の兼ね合いで丸亀、松山、高松に移住。
 高松中学校を卒業し、工科を志望し第一高等学校を受験するため上京したが、徴兵猶予を選択し早稲田専門学校に入学を決め、また同校の坪内逍遥の学識高格に感化され工科を断念して文学を志すことに転向。1906.7 早稲田大学文学部哲学科卒業。同.8 萬朝報に入社し政治部編集部員となる。
 記者生活中、法制の知識が必要であると感じ、1908.7 第一高等学校卒業検定試験を受け合格し、同.9 東京帝国大学法科に入学した。'12.7 卒業を機に、同.8 萬朝報を退職し、同.9 日本郵船会社に就職して神戸支店に配属された。内航輸出係、外航輸入係の事務を行う。しかし、職務が適していないと感じ、'14.4(T3)退職して、早稲田大学講師となる。
 翌年、早稲田大学より民法専攻のため3年間の海外留学を嘱託され、アメリカ、イギリス、ドイツ、スイスの諸大学を歴訪。特にスイスのベルン大学で法学を研究。第一次世界大戦の影響もあり、'18.2 帰朝。早稲田大学法学部先任教授に就任して民法講座を担当した。
 '22.2 東京市会議員に当選。'24.5 高松市から衆議院議員選挙出馬を推され臨むも落選。'25.7 労働協約法に関しての論文を発表、'28(S3)早稲田大学より法学博士。この間、東京市や逓信省より小学校設備の視察や戦後労働法制の調査を行う。また、欧州各国を旅行視察した。
 東伏見駅の近くに、三十人位が入居可能な学生寮「中村学寮」を建て、理想的な学生教育のサポートも行った。なおその寮は赤い瓦の三角屋根の二階建ての洋館で、とてもおしゃれで人気があったという。

<香西史>
<墓誌碑より>


墓所

*墓所には二基建ち、左が「中村萬吉 / 室 トラ 河野氏 墓」、右面「十三季八月 嗣子 萬之助 敬建」と刻み、裏面は中村萬吉の略歴が刻む墓誌碑となっている。右側に小さな墓石「中村順吉之墓」、左面「大正七年十月三十日寂 行年六歳」と刻む。墓所右側に墓誌が建つ。中村萬吉とトラ(S38.1.29歿・83才)との間には二男一女を儲ける。家督継承者は中村萬之助(H16.7.12歿・84才)、萬之介の妻は美恵子(H25.10.18・90才)。


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