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ながぬま なおえ

長沼直兄

ながぬま なおえ

1894.11.16(明治27)〜 1973.2.9(昭和48)

大正・昭和期の日本語教育者

埋葬場所: 6区 1種 9側

 群馬県伊勢崎市出身。長沼宗雄の3男として生まれる。1919(T8)東京高等商業学校(一橋大学)卒業。貿易商社に入社するが、'21.10横浜支店閉鎖を機に退職。
 自宅で勉強中に、隣人の米国人宣教師の依頼で病気で来れなくなった日本語教師の代行を頼まれ、日本語学校の臨時教師となる。アーサー・ローズィニスと知り合い、同氏の漢字辞典の全面改訂に協力。これらがきっかけで日本語教育の道を志すようになる。'22文部省語学顧問を務めていたハロルド・E・パーマーの東京高等師範学校における連続講演に出席。これが機縁となり親交を結ぶ。同.11アントネット・ファルキーと結婚。
 '23.9.1関東大震災で神田三崎町にあった日本語学校が焼失、神戸に一時移転したが、これを機に同校を退職。パーマーの推薦により、同.10米国大使館で主任教官として米国陸海軍の将校への日本語教育を担当した。同.12文部省内に「英語教授研究所(The Institute for Research in English Teaching)」が設立され、パーマーは所長、長沼は幹事に就任。翌年、委託研究員となる。長沼は英語力を活かし英語教材の作成などパーマーを支えた。'26頃よりパーマーの英語教科書のための語彙研究、1,500語の選別に参画したのを機に日本語教科書のための語彙調査を始め、議会速記録・朝日新聞・築地活版所(活字製造所)等の資料を参考に独自の漢字頻度表を作成。構文・語彙・漢字を総合した教材の作成に着手。並行して行っていた米国大使館での日本語の教育実践の中で改良をはかる。'27.12(S2)パーマーに協力してきた英語教科書が完成し、翌年文部省の検定を通り、全国で使用された。'28パーマーに代わり『機構的文法』、『機構的英文法解説』(日本文)を執筆。同.12英語教育・日本語教育に関する出版物を刊行する開拓社の取締役に就任。パーマーは'36まで在任し、その間、補佐として務めた。
 '31米国大使館での日本語の教育の教材は当初小学生向けのものであり、国家の任務を負って日本語を学ぶ知的水準が高い将校らにとって不適当であった。そのための自作テキストを学習者に試用し改良を重ね『標準日本語讀本』(全七巻 1931−34)を完成させ、自費出版をして教科書として使用した。この教科書は日本語に関するだけではなく、日本事情・平安時代や江戸時代の文化や落語、文学作品から笑い話、日本政府の仕組みなども取り上げられ、一通りの日本の理解を深められた。教科書の附属する漢字カードなども作成し日本語理解に努めた。この教科書は「ナガヌマ・リーダー」と呼ばれ親しまれた。日米関係の緊張の高まりからアメリカ政府が日本語教室を閉鎖(約18年間務めた)。
 '41.8文部省内に日本語教育振興会が設立されると、その理事として大東亜共栄圏地域への日本語普及事業に携わる。'42東京女子大学講師(〜'44)、研究部主事を兼務。同年、中国大陸の子供用入門教材『ハナシコトバ』『同学習指導書』を刊行。財団法人日本語教育振興会常務理事 兼 総主事に就任。'43大東亜省支那事務局事務を委託され、翌年は常務理事文部省委託となり、教材に関する関係官庁連絡会議に教科書編纂委員長として出席。調査や教科書を始めとする出版物の計画から発行までを担当し、終戦までの間、多くの日本語教科書や参考書、雑誌を発行した。
 '45敗戦後、米軍の依頼により米軍将校に日本語を教え始める。三省堂から『Everyday Words and Phrases』(英語会話語彙)を刊行し10万部を売り上げた。事業終了後解散申請することを決定させ、日本語教育振興会理事長に就任。翌年その財産と業務の一部を引き継ぐことが外務大臣・文部大臣から許可される。予告通り、日本語教育振興会を解散し、日本語と世界各言語とその文化の研究と教育を行うことを目的とした「財団法人言語文化研究所」を設立し理事長に就任。'47米軍総司令部顧問となり、参謀第二課日本地区語学科主任に就任。 宣教師や駐留軍の要請を受け、'48.4.12千代田区神田三崎町の日本基督教団三崎町教会内に「附属東京日本語学校」を開校し校長となった。この頃の学習者は欧米人宣教師や米国大使館、駐留軍関係者であった。
 戦前米国大使館で日本語教官をしていた際に完成させた『標準日本語讀本』は、太平洋戦争中に米国内のアメリカ海軍日本語学校内にて無断で複製し使用していた。そこで日本語の勉強をしていた一人が後に日本文学者となるドナルド・キーンである。戦後、米国側は無断使用等を長沼本人に詫びて、その埋め合わせに教科書の改訂版やその付属教材の作成費用を支援することを約束し、'48『改訂標準日本語讀本] 巻1〜8』刊行、'50付属教材も完備し市販されるようになった。
 '49東京日本語学校は東京都より各種学校の認可を受ける。'50日本語教師を目指す人を対象に日本語教師養成講習会を実施(〜'85)。'52渋谷区南平台町に新校舎をつくり移転。'54日本語教師養成講習会修了者による日本語教師連盟を発足し、機関誌「たより」刊行(34号まで刊行し、以降は「日本語教育研究」に変更)。
 校内では「ナガヌマ・メソッド」と呼ばれる教授法を取り入れている。パーマーが提唱した教授法「オーラル・メソッド」を日本語教育に応用したものである。長沼が開発した「修正直接法」で媒介語の使用を排除せず、導入や定着練習で「問答法」という発話を促進するための指導技法で、日本語の会話力を伸ばすことを目的としている。音声言語を重視し読むのは話せるようになってから学ぶというスタイルである。その後、スピーチコンテスト開催、多くの教材開発にも携わり、生涯日本語教育に尽力した。
 '57〜'62健康上を理由に校長を休職。'64校長を辞任し、名誉校長となる。'65勲3等瑞宝章。'66長沼記念館完成(現在の三号館)。'68財団法人言語文化研究所理事長を辞任し、以降は逝去するまで理事として活動した。心筋梗塞により逝去。享年78歳。同.2.23 正5位追贈。実弟の長沼守人(1911-2002)が言語文化研究所理事長・東京日本語学校校長を引き継いだ。

<『東京日本語学校 開校60周年記念誌』長沼直兄の年譜 >
<「東京日本語学校の歩み」>
<「日本語学習・教育の歴史 越境することばと人びと」など>


墓所

*墓石は洋型、前面は十字架の後に「我は復活なり 生命なり 我を信ずる者ハ 死ぬとも生きん ヨハネ 十一章 二十五節 長沼直兄 書」と刻む。右側に墓誌があり生没年月日が刻む。

*妻の長沼アントネット(同墓 1995.3.6〜1961.8.30 旧姓アントネット・ファルキー)はアメリカ人英語教師として来日。1922.11(T11)結婚。長風社の代表として長沼の著書を出版した。また自身も『英国童話集』『諸国童話集』『長沼アントネットのやさしい童話集』『長沼アントネットのアンデルセン童話集』など、多くの童話集を執筆刊行した。

*財団法人言語文化研究所附属東京日本語学校は、2009(H21)「学校法人長沼スクール」に改称。2011長沼スクールから東京外国語大学に「戦前・戦中・占領期日本語教育資料」が寄贈され、これらは「長沼直兄文庫」と称される。


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