金沢医科大学 (旧制)卒業。1937(昭和 12)年頃から注目され始めた健康教育運動の指導と研究に従事。静岡県学校衛生技師として静岡県の健康教育運動を推進を皮切りに、'42岡山県学校衛生技師を経て、神奈川県衛生課長に転じる。以後、戦前戦後を通じ衛生行政の中心として活動し、戦後、神奈川県衛生部長に昇進。
戦争の混乱期に対処してその方向をあやまらず、辣腕を振るい、部下個々の持つ力を発揮させる指導は抜群であった。常に部下に対して「やるだけやれ、責任は俺が持つ」といい、黙って自由に活動をさせる。仕事には折目があり、心ある者ならばその折目のところで必ず反省があるものだということをよく知っており、上司としての"たずな"はその時にこそ操るべきであると考える指導法であった。村山の下で育った部下からは多くの優秀な人材が生まれ、戦後の衛生行政の中で全国各県の責任者として大をなしたものも多い。
神奈川県衛生部長のまま、'48.12(S23) 神奈川県立栄養専門学院院長に就任。また、'54.11 新設の神奈川県立長浜療養所長も兼ねる。'55永年の衛生行政生活に終止符を打ち、衛生部長在任中に精魂傾けて創設した、県の平和条約発効記念事業の一つである前記の長浜療養所の専任所長に転じた。専任所長となるや時を移さず病院管理講習にも出て、衛生行政の長い経験で身についた常識的管理知識には満足せず、正統近代管理を第一歩から勉強してその核心をつかみ、施設に応じた実施を推進するなど時代と共に歩む意欲も強く持っていた。'60.10(S35)長生学園第2代学園長に就任。
多年の功績により神奈川文化賞、結核予防会功労章、保健文化賞、その他数々の表彰を受ける。著書に『処女と衛生』(1932)がある。
'66.9財団法人「子どもたちの未来をひらく父母の会」(サリドマイド児の親の団体)からの寄付金を基本財産として、心身障害児の早期発見、早期療育および社会啓発を事業目的とする財団法人「神奈川県児童医療福祉財団」を設立し理事長に就任した。同年、舌根部に原発した癌を発症し、懸命な治療を行うが翌年逝去。享年72歳。医学博士。正4位 勲3等。