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戦後、東京の銀座で一時代を築いた高級キャバレー「モンテカルロ」の経営者として活躍。他にも銀座を拠点に飲食店や不動産業などを手掛ける八洲(やしま)商事株式会社の経営者でもある。1965(S40)東京都中央区銀座7丁目に「毛利ビル」を建設した。
並行してJRAの馬主としても著名。「モンテ」の冠名でおなじみの馬主として1960年代「モンテカルロ」から1990年前半「モンテロマン」まで40頭の馬を所有した。
所有馬で最も活躍したのは、1982年春のG1天皇賞を制し、「優駿」ドリーム賞(特別賞)を受賞した「モンテプリンス」。蹄の形などの問題で道悪馬場を大の苦手としたことから「太陽の王子」との異名をもった馬であった。「モンテプリンス」の母の「モンテオーカン」はヒンドスタン産駒で、現役時は逃げ脚を武器に40戦9勝の実績を挙げた。もちろん所有場である。また「モンテプリンス」と兄弟馬である「モンテファスト」は、兄の「モンテプリンス」の活躍の陰に隠れ大器と謳われながらも結果を残せず愚弟と呼ばれていた。しかし、'84 その「モンテファスト」が7歳にしてグレード制度が導入されてGlに格付けされたばかりの天皇賞・春を初めて勝った馬となった。長い天皇賞の歴史で兄弟で制覇した例は3組目であった。
「モンテファスト」が天皇賞を制した日、オーナーである毛利は妻の節子(H12.4.30没・行年87歳:同墓)を連れて京都に応援に来ていた。妻は競馬に興味がなかったため、レース時は妻をホテルに残し一人で競馬場に行き、レース後は二人で京都見物に出かける約束をしていた。人気もなく勝てるとも思っていなかった毛利であったが、予想を裏切りモンテファストは勝ってしまった。毛利他、関係者が驚く勝利であり、オーナーとして表彰台に立つことを全く考えていなかったため、毛利は普段着であり、その姿を見た周囲から怒られたと回想している。当時の競馬界においては、Glの表彰式、それも天皇賞となると、正装が当然という時代であった。なお、ホテルで待機する妻にあわてて電話を入れ京都見物は中止になったという。二年前の「モンテプリンス」の天皇賞制覇の時は嬉しいより先に「ほっとした」と回想し、「モンテファスト」の時は嬉しさよりも驚きの方が先に立ったとのことである。
なお、「モンテファスト」は天皇賞に続き兄弟制覇を狙った宝塚記念(G1)では13着に敗退し、天皇賞秋も14着に沈み、これを最後に引退している。モンテプリンス、モンテファストを産んだモンテオーカンの子からは、40戦8勝の「モンテリボー」や東京新聞杯・中山記念3着などの実績を残した24戦6勝のパーソロン産駒「モンテジャパン」なども種牡馬入りしている。
その他、毛利が所有した馬で実績を出したのは、19戦6勝の「2代目 モンテカルロ」、20戦4勝「モンテサンオー」、15戦3勝「モンテバロン」、33戦3勝「モンテヤシマ」、16戦2勝「モンテカモン」、32戦3勝「モンテペガサス」、21戦2勝「モンテサン」、24戦2勝「モンテユニオン」、16戦3勝「モンテソブリン」、25戦3勝「モンテモア」など。
毛利喜八の後を継いで事業や馬主を引き継いだのは、長男の毛利喜昭(もうり よしあき:R1.5.7没・行年83歳)。「モンテ」以外にも「ヤシマ」を冠にした馬も所有。1970年代後半から2000年代まで68頭の馬を所有した。ラジオたんぱ賞を制した(1994)34戦6勝「ヤシマソブリン」、51戦5勝「モンテクリスエス」、43戦7勝「モンテタイウン」、21戦5勝「ヤシマジャパン」、18戦5勝「ヤシマキャプテン」、36戦5勝「モンテエン」、28戦5勝「ヤシマプリンス」、39戦3勝「モンテフジサン」、39戦5勝「ブルボンキング」、38戦6勝「ワイエム」、21戦3勝「モンテチェリー」、16戦2勝「モンテミウ」など14戦2勝「ヤシマエンペラー」など。一般社団法人中山馬主協会会長、名誉顧問。