アメリカ合衆国オハイオ州出身。1913(T2)自給宣教師として来日。東京のアメリカン・スクール及び神田の正則英語学校で、それぞれ1年間教える。協力宣教師として青山学院講堂に毎週日曜日午後に行われた英語バイブル・クラスには二百名を超す出席者を集めた人気講師であった。
正式な機関から派遣された宣教師ではない一講師であったが、深い信仰と教育にかける情熱は、同僚や教え子たちに大きな影響を与え、また生徒からよく慕われた先生であった。
'31(S6) 東京府立第八中学校に招かれ英語教師として教壇に立つ。
'35.2.11 午後0時半頃、東京青山南町4丁目を歩行中、市電停留所付近で通りすがりのタクシーの不注意ではねられ重傷を負った。一時は生命を取りとめるかとも思われたが、二日後、敗血症を併発し亡くなった。享年60歳。亡くなる直前まで、事故を起こした運転手の身の上を案じ続け、運転手が罪に問われないようにと遺言をした。後にこの遺言を知った運転手はキリスト教を信仰するようになったという。また地元の青果店主人は感激して、多磨霊園にお墓を建て、以降墓地の手入れを行っていたとされる。
<青山学院大学五十年史> <来日メソジスト宣教師事典> <日本キリスト教歴史大事典> <来日西洋人名事典・増補改訂普及版など>
*墓石には「BUT NOW ABIDETH FAITH HOPE LOVE THESE THREE AND THE GREATEST OF THESE IS LOVE」と刻む。
*人名事典でのヨミは「ミラ・ベラ・ムーン」であったが、青山学院の歴史をみると「マイラ・ベル・ムーン」であり、当時は「マイラ」と呼ばれていた可能性の方が高いと思われる。また人名事典では初来日は1911(M44)と記すものもあったため、青山学院の協力宣教師としての再来日が1913(T2)である可能性もあるが、基本ベースは青山学院の歴史に添ってまとめた。
※青果店主人は感激して、多磨霊園にお墓を建てたとされるが、墓石には建立者の名前などは刻まれていないので実際の確証はないことをご承知おきいただきたく、また詳細をご存じの方がいらしたらご一報ください。
第114回 自分を轢いた運転手が罪にならないことを遺言し死去 ムーン お墓ツアー Mira Bell Moon
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