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みよし じゅうろう

三好十郎

みよし じゅうろう

1902.4.23(明治35)〜 1958.12.16(昭和33)

大正・昭和期の詩人、劇作家

埋葬場所: 18区 1種 36側 22番

 佐賀県佐賀市出身。戸籍上は父の兄の子で、旧姓は森。4歳の時に三好家の養子となり、12歳の時に養父母を失う。母方の祖母に育てられる複雑な環境で育つ。
 1920(T9)苦学して早稲田大学英文科に入学し、在学中に詩人の日夏耿之介に傾倒。詩人の吉江喬松に師事して詩作に励み、その推薦で「早稲田文学」に詩を発表。詩人の草野新平の「銅鑼(どら)」に参加。「文芸戦線」にも詩を発表。'24 長編叙事詩『唯物神』によって認められた。
 '28(S3)詩人の高見順らと左翼芸術同盟を結成。同年、処女戯曲『首を切るのは誰だ』を発表。全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加、『疵(きず)だらけのお秋』のほか小説・詩を書き、'31 処女戯曲集『炭塵(たんじん)』を出版。プロレタリア劇作家として知られていたが、社会的リアリズムと呼ぶ創作方法により、政治主義・公式主義に不満を抱き組織から離れた。
 この間、'23(T12)左翼活動を通して知り合った香川県出身の坪井操(みさお)と結婚。'31(S6)操は結核療養のため千葉市登戸に転居。しかし、看病むなしく、'33 操は亡くなる。三好は妻の看病とその死を題材に戯曲『浮標(ぶい)』を発表し代表作となった。また、看病中に執筆していた、幕末から明治にかけての激動期を描いた超大作『斬られの仙太』を、'34 発表。この作品は現在も舞台上演されるヒット作である。
 '35 からは東宝の前身のPCLに入りシナリオを執筆。以後敗戦まで『をさの音』『獅子』などの佳作を生み出した。
 戦後は、反俗・反権威・反道徳的言動で時代を象徴することになった一群の作家たちをいう無頼派の一人と言われ、『崖』『廃墟』『その人を知らず』の作品に才能を示した。特に進歩的文化人をののしった評論集『恐怖の季節』は話題を呼んだ。
 '51 雑誌「群像」に画家のゴッホを描いた『炎の人』を発表。第3回読売文学賞戯曲賞を受賞するなど多くの劇場で上演された。他にも映画化された作品も多く発表した人気劇作家であったが、肺結核により逝去。享年56歳。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<小学館 日本大百科全書など>


三好 操(みよし みさお)
1896(明治29)〜 1933(昭和8)
三好十郎の妻
 香川県出身。旧姓坪井。成徳女学校の物理学の教師であった1923(T12)左翼活動を通して知り合った三好十郎と結婚。 1931(S6)操の結核療養のため千葉市登戸に転居する。操の世話には中学校の後輩の母親を頼み、三好は「斬られの仙太」を執筆した。 医師に手術を勧められるが、三好は幸福な気持の中で死なせてやりたいと痛感、好物のザボンを買って与えたり、眠れないといえばギター々弾いてやったりした。享年37歳。
 三好は妻の看病とその死を題材に戯曲「浮標」を発表、'40(S15)3月新築地劇場で上演され、三好の代表作となった。

<日本女性人名辞典>


*墓石は洋型「三好十郎」。墓誌には三好十郎と後妻の三好きく江の名が刻む。きく江は十郎没後の『三好十郎著作集』の監修を務めた。前妻の操は刻まれていない。


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