本名は大四郎。石川啄木夫人の妹の夫。函館立待岬の啄木墓地の隣にも墓がある。新潟県北蒲原郡荒川村字荒川の宮崎竹四郎の長男として生れる。郁雨は号。
二歳の頃、宮崎家は没落し、父は単身函館に渡り、母と共に母の実家に預けられる。四歳の春、父の迎えを受けて一家は函館に移住する。父は味噌屋を始める。1905(M38)北海道庁立函館商業学校を卒業。その後数ヵ月海陸物産問屋近藤商店に勤務。
年末に志願兵として野砲兵第七連隊に入隊する。翌年、除隊し帰函。年末に苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)に加わる。'07「紅苜蓿(べにまごやし)」第1号が刊行される。5月5日苜蓿社に石川啄木を迎える。'08陸軍砲兵少尉に任じられ正八位に叙せられる。
'09(M42)10月26日啄木夫人節子の妹堀合ふきと結婚する。'12(M45)4月13日、石川啄木が東京で没する。'13(T2)岡田図書館長等と啄木追悼会を開く。その後、節子未亡人の依頼を受けて啄木の遺品を納め函館図書館啄木文庫を作る。
'23父が没したためその後を承けて家業の味噌醤油醸造業に従事する。同年「函館戦争と五稜郭」を刊行。'25社団法人函館慈恵院監事に選任され、'31(S6)理事に、そして、'33常務理事に選任される。
この年の8月味噌製造業を廃業し、栄町に味噌小売店を出す。'40支那事変に於ける功により勲六等瑞宝章を授与される。'45還暦を記念して歌集「自画像」を刊行する。
翌年、恩賜財団同胞援護会北海道支部幹事を委嘱され、社会事業功労者として両陛下に拝謁する。また社団法人函館厚生院相談役に推薦され、市立函館図書館嘱託となる。
'48函館引揚援護局総務部渉外課に勤務、'50「函館引揚援護局史」を編さんする。'56函館の郷土雑誌「海峡」に啄木関係の記事の執筆を始める。'58函館市文化賞。
函館図書館に啄木を語る会発足、毎回出席し講演する。'60「函館の砂−啄木の歌と私と−」を刊行。'61啄木50回忌記念「函館と啄木」を阿部たつを・田畑幸三郎と共編刊行する。享年78歳。