終戦後の日本がGHQに統治されている時期。マッカーサーは日本の子どもの口は虫歯だらけであることに気づき、また日本歯科界は近代化されていないと思い、さらに医科と歯科が対等でない教育に対して歯科と医科を同等にして6年制の大学教育にするようを指示をした。これによりGHQの医療行政改革担当部門が小児歯科をつくり、口腔衛生を導入、歯科衛生士の教育を開始し、専門学校が大学へ昇格、卒業試験を国家試験制度にした。
1947(S22)東京医学歯学専門学校卒業。ちょうど卒業した年に第1回国家試験が行われ受験して合格。同.7.1 戦後初矯正歯科専門診療所を開設することになる高橋新次郎の矯正の高橋教室に入り副手として母校に奉職した。'60 シカゴ大学の歯科人類学教室研究員を経て、'62〜'92(S37-H3) 高橋新次郎の後を継ぎ、東京医科歯科大学歯学部歯科矯正学教室教授を務めた。
この間、高橋と共に矯正歯科関連の学会の立ち上げや矯正治療の認知、矯正装置の導入や普及活動に尽力。'73 第3回国際矯正歯科会議名誉会長(ロンドン)。'74〜'79 日本矯正歯科学会会長に就任。'76〜'85 東京医科歯科大学歯学部病院長を併任。'85〜'86 国際歯科研究学会理事、'86 国際歯科研究学会日本部会会長を歴任した。'90(H2)東京医科歯科大学を停年退官し名誉教授。
'97 サンフランシスコにおいて世界矯正歯科連盟(WFO)が結成された際、アメリカ人のDr.Dewel(デューウェル)、デンマーク人のDr.Bjork(ブジョーク)、そして日本人の三浦不二夫の3名が名誉会員に選ばれ、名誉会員章を授与された。これを所有する矯正歯科専門医は世界で3名だけの快挙である。
2004 東京医科歯科大学経営協議会委員、その他に日本矯正歯科学会名誉会員、日本臨床矯正歯科医会名誉会員、「母と子の良い歯のコンクール」審査委員長。矯正医療に携わる歯科医師の功績により、紫綬褒章、勲3等旭日中綬賞、米国矯正歯科学会ケッチャム記念賞などを受賞。
日本の矯正歯科界に多大な貢献をされた。歯学博士。子の三浦弘貴も父の後を継ぎ三浦矯正歯科院長として活動されており、晩年はその名誉顧問ドクターとして活動した。うっ血性心不全のため逝去。享年92歳。