宮城県出身。1909.4.1(M42)海軍機関学校卒業(17期)し、少尉候補生として千歳乗組。同.9.13 生駒乗組、同.12.1 鎮遠乗組、'10.1.15 機関少尉に任官し香取乗組、同.11.9 津軽乗組、'11.5.22 鈴谷乗組を経て、同.12.1 機関中尉となり、'12.5.22 第12駆逐隊附に着任した。
'13.5.24(T2)工機校普通科学生として学び、同.12.1 機関大尉に進み朝日分隊長に就任した。'14.10.22 生駒分隊長、'15.5.26 呉海兵団分隊長を務めた後、同.12.13 海軍大学機関学生として学ぶ。'17.12.1 河内分隊長、'18.8.20 横須賀鎮守府附、同.9.10 機関校教官を務めていたが、同.12.1 海軍大学選科学生としても学ぶ。
'19.12.1 機関少佐に進級し横須賀工廠造兵部員を経て、'23.6.20 海軍大学校教官、同.6.30 技術研究所員を兼ねた。'24.12.1 機関中佐、'25.8.1 造兵監督官、'27.4.5(S2)艦政本部造兵監督官に就任した。同.6.15 英国に出張し、'28.11.15 帰朝して横須賀工廠造兵部員に着任。
'29.11.30 機関大佐。'30.9.25 造機部部員を兼務。同.12.1 広工廠総務部長に補された。'33.10.20 横須賀鎮守府附から、同.11.15 横須賀鎮守府機関長を任ぜられた。
'35.11.15 少将に昇進し、海軍大学校教官を務める。'37.12.1 燃料廠長、'39.8.30 軍需局長を歴任した。同.11.15 中将に累進。'43.10.25 軍令部出仕となり、同.12.13 待命。同.12.14 予備役になった。正4位 勲1等。享年62歳。
*墓石は二基建ち、右が和型「御宿家之墓」、左が和型「海軍大尉御宿繁夫之碑」が建つ。「御宿家之墓」の裏面は「昭和十八年十月 御宿好 建之」と刻む。「海軍大尉御宿繁夫之碑」の前面には「行年二十二歳」「父海軍中将御宿好書而建之」とも刻む。左面は「奮進死闘殉國 元帥海軍大将永野修身書」、右面「忠滅奮進殉國 御宿繁夫君 海軍大臣嶋田繁太郎書」と刻む。墓所右側に墓誌が建ち、御宿繁夫から刻み「海軍大尉 正七位 勲六等 功五級 昭和十八年四月七日ソロモン諸島方面ニ於テ戦死」と刻む。次に御宿好で「正四位 勲一等 海軍中将」と刻む。妻は悦(S30.3.10歿・行年82)。御宿好彦(S45.4.27歿・行年53)も刻む。
*御宿繁夫(みしゅく しげお)は攻玉杜中を経て、1941.3.25 海軍兵学校卒業(69期)。同.11.1 少尉に任官。'42.11.1 中尉、飛行学生。'43.2.27 隼鷹乗組。同.4.7 ガダルカナル島攻撃時にて戦死。海軍大尉に特進。