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みのりかわ なおさぶろう

御法川直三郎

みのりかわ なおさぶろう

1856.8.13(安政3.7.13)〜 1930.9.11(昭和5)

明治・大正期の製糸機械発明家

埋葬場所: 5区 1種 8側 9番

 出羽国秋田城下(秋田県)出身。士族の家に生まれる。若い頃より、地元や福島県で養蚕・蚕種製造に従事。 1887(M20)東京西ヶ原の蚕病試験場へ伝習生として入場し、繭質調査を行う。
 繰糸の効率を高めるためには、繰り取る速度を速めるか、生糸を巻き取る小枠の数(条数)を増やすかのどちらかしかなかった。 明治になって、繰糸作業が機械化されると、一人が2条〜4条を繰糸するようになり、繰糸速度も1分間200m〜300mと速くなっていた。 直三郎は速度を速めると繭糸の切断回数が増え、しかも糸質の低下が著しくなることに気付き、このことが、低速多条繰糸機開発の道を歩むきっかけになる。 巻き取り速度を遅くするためには、振動の少ない金属製の精緻な機械が必要となるなど、多条繰糸機開発の途上に山積した数々の技術問題を解決していった。 1904(M37)には、一人で20条もの生糸を操ることのできる多条繰糸機の完成にこぎつけ、'11「御法川式多条操糸機械」を発明。'22(T11)片倉製糸工場で実用化された。
 片倉製糸は御法川式多条機により最高級格生糸を'30(S5)頃に一時独占的に生産し、これは「ミノリカワ・ローシルク」としてニューヨーク生糸市場で一世を風靡した。 晩年は養蚕農民の立場に立った『製糸業革新意見』を著した。享年74歳。

<朝日日本歴史人物事典>
<御法川直三郎翁自伝 丹羽四郎編>
<片倉シルク記念館・岡谷蚕糸博物館などを参考>


みほがわ なおさぶろう

*墓石は和型「御法川家之墓」。墓誌がある。墓所内には「植樹奉献者」と題して刻む墓誌があり合名会社御法川工場の部署、氏名が刻む。御法川直三郎の功績が刻む大きな「頌徳碑」が建つ。この碑の撰文は貴族院議員の今井五介、篆額は伯爵で首相も務めた清浦奎吾。


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