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RICHARD Nichols McKINNON

リチャード N マッキンノン

RICHARD Nichols McKINNON

1922.1.12(大正11)〜 1994.5.29(平成6)

昭和期の日本文化学者

埋葬場所: 外人墓地区 1種 10側

 小樽高商に客員教授として来日していたダニエル・ブルック・マッキンノンと、歌人の秦子(しんこ)との間の長男として生まれる。
 旧制四高(金沢大学)2年生の時に、太平洋戦争が勃発し、学生寮に特高警察が踏み込み連行され、カナダ人経営の幼稚園に収容された。 サッカー部に所属していたこともあり、部員達は毎日練習後、幼稚園の周囲をランニングしながら何回もまわり、大声で『マッキンノン頑張れ』と励ましたというエピソードがある。 見に覚えのないスパイ容疑で連行されていた父と共に、全国の収容所を転々とした。 後、父とともに交換船でアメリカに帰国した(二人の姉のエリザベスとリンコーナは先に帰国)。 母は日本国籍であったことと、重い病にかかっており動かすことができず小樽に留まった。
 戦後、フルブライトの交換学生として来日以来一貫して、能・狂言の研究を行なった。 ハーバード大学を卒業し、日本文化研究で博士号取得。世阿弥の研究では米国の第一人者で、能狂言の紹介に尽くした。 シアトルのワシントン大学教授(後、名誉教授)となり日本文化や文学を講じ、また環太平洋問題研究所を設立して所長、アジア総合芸術研究所長などを歴任した。 行動的な学者で、日本へ古典芸能鑑賞ツアーを企画したり、フォード財団に働き掛け、1963(S38)に狂言の6代目野村万蔵一家をシアトルに1年間招くなど、日米交流に貢献した。 '89日本政府より勲三等旭日中綬章。癌のため没す。享年72歳。

<現代物故者事典 94/96>
<北海道新聞1999.12.8夕刊など>


*多磨霊園の墓所には、母の秦子〔SHINKO M McKINNON〕(1882.7.15〜1943.5.19)とリチャード N マッキンノンの二名が眠る。

*母の秦子は北海道で歌人として活動していたが、病いに倒れ、家族がアメリカへ帰国後すぐに小樽にて没した。 リンコーナが戦後来日した際に、母の遺骨を守ってくれていた人が見つかり、遺骨を引き取って多磨霊園に埋葬した。

*リチャードは母の秦子と、19歳で離れ離れとなり、離れてすぐに母が没したこともあり、生前、母に何も尽くさなかったのが心残りだと悔やんでいた。 そこで、姉のリンコーナ・M・ギルフォイルが「それならお母さんの横に葬ってあげようか」との問いに、「是非頼む」と応えたという。


ダニエル・ブルック・マッキンノン( DANIEL BROOKE McKINNON )
1889(明治22)〜 1976(昭和51)
大正・昭和期の教育者、リチャードの父
 ハーバード大学卒業後、1917(T6)小樽高商に客員教授として来日。英語教育を行なった。 歌人の秦子(しんこ)との間に一男二女をもうけた。動物好きでも著名であり、官舎からロバのドンキー号で出勤するなど、「ロバ先生」として市民に敬愛された。 しかし、太平洋戦争開戦とともに、全く見に覚えのないスパイ容疑で拘束され、全国の収容所を転々とし、息子のリチャードとともに交換船で帰国した。 先に帰国していた二人の娘とアメリカで合流。日本国籍の妻の秦子だけは病いのこともあり残された。
 1965(S40)高商の教え子たちが、ダニエルを日本に呼ぶ活動を行ない、募金を集うなど行なったがダニエル本人が承諾しなかった。 25年間の小樽と、戦争中の収容所のことから、「日本に対する自分の感情をはっきり形づくることは、難しい」と考えていたと伝えられている。 だが、熱意に押され、'67来日。二ヶ月にわたり、各地の同窓会(緑丘会)による歓迎を受け、全国を旅行し帰国した。 勲三等瑞宝章。享年87歳。


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