北海道小樽市出身。小樽高商に客員教授として来日していたダニエル・ブルック・マッキンノンと、歌人の秦子(しんこ)との間の長男として生まれる。
旧制四高(金沢大学)2年生の時に、太平洋戦争が勃発し、学生寮に特高警察が踏み込み連行され、カナダ人経営の幼稚園に収容された。
サッカー部に所属していたこともあり、部員達は毎日練習後、幼稚園の周囲をランニングしながら何回もまわり、大声で『マッキンノン頑張れ』と励ましたというエピソードがある。
見に覚えのないスパイ容疑で連行されていた父と共に、全国の収容所を転々とした。
後、父とともに交換船でアメリカに帰国した(二人の姉のエリザベスとリンコーナは先に帰国)。
母は日本国籍であったことと、重い病にかかっており動かすことができず小樽に留まった。
戦後、フルブライトの交換学生として来日以来一貫して、能・狂言の研究を行なった。
ハーバード大学を卒業し、日本文化研究で博士号取得。世阿弥の研究では米国の第一人者で、能狂言の紹介に尽くした。
シアトルのワシントン大学教授(後、名誉教授)となり日本文化や文学を講じ、また環太平洋問題研究所を設立して所長、アジア総合芸術研究所長などを歴任した。
行動的な学者で、日本へ古典芸能鑑賞ツアーを企画したり、フォード財団に働き掛け、1963(S38)に狂言の6代目野村万蔵一家をシアトルに1年間招くなど、日米交流に貢献した。
'89日本政府より勲三等旭日中綬章。癌のため米国シアトルにて没す。享年72歳。
<現代物故者事典 94/96> <北海道新聞1999.12.8夕刊など>
*元々は根石に〔SHINKO M McKINNON〕というプレートのみであった。後にその根石にくっつける形で墓石を建て、墓石は墓誌のように眠っている方々の名前(英字)と生没年月日が刻む。上から、母の秦子〔SHINKO M McKINNON〕(1882.7.15〜1943.5.19)、リチャード N マッキンノン、姉のリンコーナ・M・ギルフォイル〔LINCOLNA M GUILFOILE〕(1920.2.12〜2017.10.7)、リンコーナの夫のジョセフ・V・ギルフォイル〔JOSEPH V GUILFOILE〕(1922.4.29〜2017.6.18)の4名が刻む。
*母の秦子(旧姓は三島)は北海道で歌人として活動していたが、病いに倒れ、家族がアメリカへ帰国後すぐに小樽にて没した。
リンコーナが戦後来日した際に、母の遺骨を守ってくれていた人が見つかり、遺骨を引き取って多磨霊園に埋葬した。
*リチャードは母の秦子と、19歳で離れ離れとなり、離れてすぐに母が没したこともあり、生前、母に何も尽くさなかったのが心残りだと悔やんでいた。
そこで、姉のリンコーナ・M・ギルフォイルが「それならお母さんの横に葬ってあげようか」との問いに、「是非頼む」と応えたという。
ダニエル・ブルック・マッキンノン( DANIEL BROOKE McKINNON )
1889(明治22)〜 1976(昭和51)
大正・昭和期の教育者、リチャードの父
ハーバード大学卒業後、1917(T6)小樽高商に客員教授として来日。英語教育を行なった。
歌人の秦子(しんこ)との間に一男二女をもうけた。動物好きでも著名であり、官舎からロバのドンキー号で出勤するなど、「ロバ先生」として市民に敬愛された。
しかし、太平洋戦争開戦とともに、全く見に覚えのないスパイ容疑で拘束され、全国の収容所を転々とし、息子のリチャードとともに交換船で帰国した。
先に帰国していた二人の娘とアメリカで合流。日本国籍の妻の秦子だけは病いのこともあり残された。
1965(S40)高商の教え子たちが、ダニエルを日本に呼ぶ活動を行ない、募金を集うなど行なったがダニエル本人が承諾しなかった。
25年間の小樽と、戦争中の収容所のことから、「日本に対する自分の感情をはっきり形づくることは、難しい」と考えていたと伝えられている。
だが、熱意に押され、'67来日。二ヶ月にわたり、各地の同窓会(緑丘会)による歓迎を受け、全国を旅行し帰国した。
勲三等瑞宝章。享年87歳。
リチャード・L・ギルフォイル( RICHARD L GUILFOILE )
1948.2.28〜
アメリカ合衆国ワシントンDC出身。祖父は小樽高商教授を務めたダニエル・ブルック・マッキンノン。父はジョセフ・V・ギルフォイル、母はリンコーナ・M・ギルフォイル。叔父はリチャード N マッキンノン。
1歳の時に両親と来日。2年滞在しアメリカに戻り、8歳で日本に来て、2年後にまたアメリカに戻る。14歳の時にまた日本に来て、東京のインターナショナルスクールに通い、卒業後はアメリカの大学に進学と日米を行き来する幼少・青年期を過ごした。
ベトナム戦争中に兵隊に志願するが身体検査で不採用となった。大学を卒業後、ワシントン大学大学院への進学が決まっていたが、入学まで半年あったため親がいる日本に行く。この時に知り合った女性と4か月後に婚約をすることになり大学院進学をやめ、就職に切り替え広告代理店に就職。
メーカー希望が強くなり化粧品会社に転身するため単身アメリカに渡り転職。その後、男性用髭剃りメーカーに11年間勤務し、2000.11(H12)経営手腕が買われ、コールマンジャパン(株)代表取締役社長に就任。就任時はキャンプブームが終わった直後で、日本の14歳から59歳の6%しかキャンプに行かない状況であった。キャンプ未経験者の70%が行かない理由を、お金や車や時間、友達がいないと回答。そこで「ノンキャンピング」と呼ばれる、トレッキングやBBQ、ビーチなど、本来のコールマンのコンセプトから外れる提案で起死回生をかけた。結果、ブランド価値が向上しキャンプ用品の売り上げが増えていった。このことで会社の立て直しに成功し、コールマンジャパンは韓国や中国、台湾などアジア各国も手掛けるようになった。2015顧問となり、アメリカオレゴンに在住。
<「コールマンを創る人々」特別編 リチャード・L・ギルフォイル 前・代表取締役 社長」三浦修>
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