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まつした てつさぶろう

松下鐡三郎

まつした てつさぶろう

1853(嘉永6.8.21)〜 1900.1.16(明治33)

明治期の実業家(丸善)

埋葬場所: 5区 1種 12側

 三河吉田(愛知県豊橋市)出身。三河吉田藩士の松下半助(同墓)の長男。 少年時代に藩校時習館で中村道太(後の横浜正金銀行初代頭取)の教えを受け、その縁故によって、1873(M6)中村道太を頼って上京し、道太の経営する中村屋洋品店に奉公。店名は鉄蔵。翌年、中村屋が丸屋と合併したため、丸屋の店員となり、用品卸売の係りとなった。
 1880(M13)貿易商会が設立され、ウラディオストクに出張所が開設されると、その主任として赴任。商品の輸出入に手腕を発揮した。 1884.8招電を受け、急いで東京に帰ったが、丸家銀行が破たん。丸善商社に与えた打撃は大きく、丸善の善後処置が急務の中、丸善の創業者の早矢仕有的社長らが退任。 後任に書店の主任であった小柳津要人が推薦されたが、小柳津が固辞して受け入れず、貿易で手腕を発揮していた鐡三郎が推され、2代目社長に就任した。丸善再建に着手。
 丸善商社は非常に困難な状況に陥っていたが、支援を惜しまない取引先もあり、特に外国の取引先の丸善に対する長年の付き合いと信用が再建の後押しとなった。 また、1895日清戦争の勝利の後に到来した好景気などもあり、丸善の再建は順調に進み、1902株主総会では株払込金に対して6分の配当ができるまでに回復した。
 再建の途上で鐡三郎は逝去。享年46歳。丸善は社長を固辞していた小柳津が引き継ぎ復活を果たした。 なお、鐡三郎と妻の要子の子である松下領三(同墓 1926.1.1歿)は父没後、1908(M41)東京帝国大学卒業生(法学部)としては初として丸善に入社し、書籍部仕入課長などを歴任したが、42歳の若さで没している。

<丸善百年史>


墓所

*「松下家之墓」の右側に墓誌がある。没年月日、続柄、俗名、行年のみが刻む。戒名はない。


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