メイン » » » PERSON
まつおか りょうたろう

松岡梁太郎

まつおか りょうたろう

1884(明治17)〜 1952.11.7(昭和27)

明治・大正・昭和期の実業家(三菱)、
教育者(成蹊学園)

埋葬場所: 26区 1種 16側

 茨城県出身。師範学校で教育者を目指していたが、上級の時に退校をさせられてしまう。進路変更をせざるを得なくなり、一高から東京帝国大学を経て三菱に入る。三菱の樺太の支店長、三菱商事函館支店長などを歴任した。'24(T13)より成蹊学園の幹事として、菱友会で岩崎小弥太の奨学金を受けて勉学させるための学生の推薦など教育人事に絡み、以降、三菱と成蹊学園のパイプ役的存在として活動。
 「菱友会」とは、岩崎弥之助が学費に困る有望な学生に学費を支援することをすすめ、組織的に学資を援助する事業を行うことを約束する会。1908(M41)弥之助没後、家督と事業を相続した岩崎小弥太が引継ぎ、この支援で学業ができた先人である政治家の三士忠造と「菱友会」を組織的に形成。この取り組みをこれからの世代にも広げようと、二人が人選した学生たちに月額15円を贈る奨学制度を確立した。'11(M44)大学を卒業した人たちに始まり、'32(S7)年度の卒業学生まで続き、159名を支援した。このパイプ役として松岡は尽力。
 この間、'12岩崎小弥太が同窓生の銀行家の今村繁三と、教育者の中村春二を援助し、成蹊学園の前身の私立成蹊実務学校の創設に寄付。成蹊学園は官立校が多かった旧制高等学校のなかで、全国でも4校しかない私立の7年制(尋常科4年+高等科3年)旧制高校の一つとなる。成蹊学園の理事長は、'25.11創立から'45.12までは三菱財閥4代目総帥の岩崎小弥太が務め、小弥太死去後の戦後は、山室宗文(15-1-1)が二代目に就いた。成蹊学園の初代校長は浅野孝之(1925.4-1937.8)、二代目校長の土田誠一(1937.9-1945.10)に継いで、終戦直後の混乱と財閥解体などにより、3代目校長として松岡が栄進した(1945.10-1946.8)。'46.8 校長を清水護に譲り、成蹊学園理事に就任した。
 戦後、'47新制成蹊中学校創設、'48新制成蹊高等学校創設、'49学制改革に伴い成蹊大学創設(政治経済学部を設置)。変革において学園の素地づくりに邁進し、成蹊大学教授も兼ねた。'51財団法人成蹊学園を「学校法人成蹊学園」に改組。この時、理事長を石黒俊夫、常務理事として丹羽孝三と共に就任した。著書に『水戸学の指導原理』(1934) 、『敬而已塾の思出を語る』(1941)などがある。享年68歳。

<回顧録旧制成蹊高等学校>
<成蹊学園百年史など>


*墓石前面に旧字体で「松岡家」。裏面は「昭和四十五年十一月 松岡秀夫 建之」と刻む。墓石左側に墓誌があり「松岡梁太郎翁命」と刻む。妻はくら。墓誌の右面に「平成四年十一月 松岡慶子 建之」と刻む。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・ま | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。