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まつおか なおじろう

松岡直治郎

まつおか なおじろう

1983(明治16)〜 1941.2.23(昭和16)

明治・大正・昭和期の実業家
(ズボン釣り・ヨット鉛筆)

埋葬場所: 16区 1種 3側

 新潟県中頸城郡(上越市)出身。1896(M29)13歳の秋、空樽屋を浅草で営んでいた祖父を頼りに上京。祖父の車の後押しなどをして手伝う。 手伝いを求めて、唐物屋へ小僧奉公に入った。しかし、その店が破産してしまい、大枚二十円の手当が支給された。 このわずかな資本をもとに習い覚えた商売で、洋品雑貨の行商をすることにした。ここから勤勉力行の修行が始まった。
 「健康と精勤が何よりの資本である。誠実と信用は元手である」を心に、「買った物は現金で払う」を主義として、足まめ小まめに広く多く売り、利は忍べるだけ薄くして、集めた金はその足で次の商品に換えた。この信念は問屋から誠実さを認められることとなり、段々融通をきかせてくれることになった。
 行商をしている中に、唐物のガーターやズボン釣り(サスペンダー)について色々な批評を度々耳にした。色が派手すぎるとか、図柄が大まかだとか、デザインが悪いとか、また、ズボン釣りの股の部分が破れやすいとかである。 これらは全て輸入品に頼っており日本人向きのものはなかった。直治郎の仕事もそれらを問屋から受けてそのまま取り次いでいるにすぎない行商の身である。そこで直治郎は思った。 ならば、日本人向きのものを考案し、製造すればきっと喜ばれるに違いないと。当時の明治文化は欧風讃仰から生活の様式にも及び、洋服の着用は一般化してきていた。 ガーターやズボン釣りは国民生活上なくてはならぬものになってきていた。今こそ、日本人向けの製造をするべきだと感じたのだ。
 1906(M39)正月、浅草瓦町に小さな家を借り、今まで地道に貯めたお金でミシンを購入した。2、3人の男女工にガーターやズボン釣りの製造の手伝いをしてもらいつつ、自らも製造に加わり、材料の仕入れから製品の売り込みの全てを行った。 商標は「谷渡り人物印」とした。両端を吊ったその上を人が綱渡りしても大丈夫だとの意味である。またそれだけ自信のある商品であるという意志であった。 国内初のサスペンダーブランドとしてガーター(靴下止め)、裄吊り(アームクリップ)、腕輪(アームバンド)などにも使用され人気を博した。
 '14(T6)日本橋馬喰町に「松直商店」を設立。しかし、当時は世界大戦が勃発し、舶来品の杜絶に邦品の海外新種といった一般情勢に均霑し、今までの工場と設備だけではとても注文に応じきれないということで、ズボン釣りその他の部分品一切を自家供給するべく渋谷に工場を建てた。 ところが、この新事業は欠損が続き、3年、4年経って好転しなかった。普通であれば投げ出すところを、諦めずに勇ましく戦った。5年目にしてついに好転したのである。
 '20同時期、友人が経営をしていた東洋文具鉛筆製作所が不振に陥り、応援していた直治郎が出馬せざるを得ぬことになった。この時、直治郎は5年間も鉄損を続けた後であった。 順調に発展しだしたズボン釣りの本城を弟子に任せ、自身は鉛筆工場の再生に乗り出す。全く方面違いの事業であったが、負けじ魂と商才とは、やがてこの赤字続きの工場を改善させていった。 製産工程に販売、思い切った進歩的な方策を施した。物と人と金と経験を注入しただけでなく、古い昔を蘇らせて、自らが女房具店を訪ねて廻った。その奮闘の甲斐があり、「ヨット鉛筆」の開発に成功した。
 ヨット鉛筆は人気が出、注文が殺到。目黒の工場だけでは手狭となり、'32(S7)川口市に大工場を建てるまでに成長した。ここでもズボン釣りと同じ精神が流れ、即ち、芯の製造(ゾル製・特許芯)から素材の加工処理、鉛筆への道程と、材料の製造から完成品へまで自給自足が行われた。
 二つの会社は共に株式上場を果たし、ズボン釣りの松直商店株式会社、ヨット鉛筆株式会社の社長を兼務した。ズボン釣りその他、洋品雑貨に於いては、品質の精良と研鑽を以て知られ、年商百数十万円を稼ぎ、内地だけでなく海外にまで及び、名実ともに東洋一を誇った。 鉛筆に於いては日本五大鉛筆工場の一つとしてシェアを拡大。こちらも海外に輸出するまでとなり、従業員数は500名を越えていた。
 '34大日本義勇飛行会という団体が全国の児童に呼び掛けてタバコの銀紙を集め、これを原資として飛行機を購入し、少年飛行兵の養成に努めていたことを知った直治郎は、大日本義勇飛行会に「乙式一型偵察機一機」を寄贈した。 名前は『谷渡り・ヨット号飛行機』と命名。これを記念し、凡そ15cm四方、表紙共紙の全20P、写真も多数収められた小さな冊子『谷渡り・ヨット号飛行機 進空記念』も作られた。
 昔を回顧した際の言葉:「学問も無かった。財もなかった。背景もなかった私であるが、今日あるのは私に異常な根のよさが有ったからです」。享年57歳。

<『今日を築くまで : 立志奮闘伝』東海出版編 S15>


*墓石は和型「松岡家之墓」。左面が墓誌となっており、戒名は大機院直指祖勲居士。裏面には「昭和十四年九月 松岡直治郎 建之」と刻む。子も松岡直治郎(H1.4.1歿 享年81)を名乗っている。


【ヨット鉛筆】
 1916(T5)東洋文具鉛筆製作所が創業される。'20経営不振に陥っていた同社に、松岡直治郎が助っ人参戦し社長に就任。製造の全てを同工場で完成させる製造工程を確立し、ヨット鉛筆「ゾル(SOL)製特許芯」の開発に成功、販売を開始。瞬く間に人気を博す。大半の商品に「yacht」とヨットマークの刻印がある。
 '33(S8)ヨット鉛筆株式会社に社名を変える。直治郎没後の戦後は、三菱鉛筆、トンボ鉛筆に並び鉛筆三大メーカーに数えられる程であった。しかし、'51(S26)経営破たんし経営者が変わるも、'67(S42)倒産。以降、ヨット鉛筆は姿を消すことになる。

ヨット鉛筆


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