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まつかわ さく

松川サク

まつかわ さく

1892.3.19(明治25)〜 1986.11.29(昭和61)

昭和期の実業家(コンドーム)

埋葬場所: 区 種 側 番

 神奈川県愛甲郡小鮎村出身。旧姓は市野。父は祖父から受け継いだ製糸工場を経営。六人きょうだいの三番目に生まれる。
 1908(M41)厚木高等女学校卒業後、愛甲郡立女子実業補習学校4年を終え、東京で行儀見習いの後、松川儀良と結婚。 夫に勧めて横浜の長者町で医療用酸素を県内一帯に卸す商売を始めた。関東大震災被災後は、薬剤師を雇い東海薬局として再起。二児を得るが、夫は40代半ばで心臓麻痺で死去する。
 この頃、イギリスで強い被膜のラテックスゴムが開発された。薬局で仕入れるコンドームの劣化に不満を持っていたので、自分の手で新製品を開発しようと動き出す。 1934(S9)元薬剤師で研究家の武内重夫の協力を得て、東京目黒(後に大森)にアサヒラテックス化学研究所を設立。日本最初のコンドーム開発と商品化に成功した。 '38日本軍の大陸侵攻に伴い、軍需工場に指定され事業に追い風が吹く。'40北京に分工場を作るが戦火が激しくなって撤退し、'44.12武内を社長に故郷の厚木町に相模ゴム工業株式会社を改組設立する。武内の没後、'69社長に就任。'73会長となった。この間、'66開発途上国援助にコンドームの無償供与を決めたスウェーデン政府と、厳しい入札を経て契約。 これが世界市場での知名度をあげ、品質の良さも相まって飛躍的な輸出増につながり、わが国の避妊具のトップメーカーに成長した。経営は親族に引き継がれ、マレーシアに合弁会社を設立するなど海外戦略を積極的に進め、70年代後半には先進医療機器、福祉機器輸入も始める。
 東京商工会議所東商婦人会会長、女性実業家の団体である日本ソロプチミストクラブ初代会長、全国商工会議所婦人連合会会長を歴任し、地域商工業の振興を図る一方、家庭教育の重要性を説く。'85厚木市名誉市民第一号。
 経営者としての才覚と手腕は、家族計画の知識を広めるため来日したマーガレット・サンガーの講演を聞いて以来の信念に支えられていた。 サンガーの初来日は'22.3(T11)、嬰児死亡率を下げ、母子の精神的、身体的浪費を無くすための制限を説き、加藤シヅエらの「日本産児調節研究会」発足の契機となった。 「産めよ殖やせよ」が国策の時代を経て、戦後のベビーブームを迎え産児制限の認識は急速に浸透、コンドームは一般家庭の需要に応えた。 しかし、最もコンドームの普及と認知を高めたのは、'79世界で初めてエイズウィルスが発見され、'81日本人エイズ患者第一号の報告があり、'86唯一のエイズ予防具として世界的に需要が高まったからである。 コンドームが性病予防の役割として見直され始めたその年に逝去。享年94歳。遺言により小・中・高生の自由研究、短大や大学生の卒論を対象にした「松川サク工業賞」が設けられ、青少年育成に寄与している。
 コンドーム生産に乗り出し、一代で避妊具トップメーカーに育てあげた松川サクをモデルにした梶山季之の小説『さっく一代』(「現代」1970年2月号)がある。 見本を膨らませて持ち歩くたくましい経営者、男装して吉原に乗り込み、使い心地を偵察したなどの商魂の持ち主として描かれている。

<日本女性人名辞典>
<講談社日本人名大辞典>
<時代を拓いた女たち―かながわの131人>


※参考資料にて使用した『時代を拓いた女たち―かながわの131人』(江刺昭子 史の会・神奈川新聞社)にて墓所が多磨霊園である旨の記述がありました。


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