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まつい ぶんたろう

松井文太郎

まつい ぶんたろう

1868(慶応4,8)〜 1933.9.2(昭和8)

明治・大正・昭和期の絹業者、政治家

埋葬場所: 8区 1種 7側

 越前(福井県福井市)大野郡勝山長淵町出身。郡会議員、県議会議員、勝山町長を歴任した商家の松井文吉の長男。
 1886(M19)福井師範卒業。1887勝山市成器小学校の訓導になるも、1892退職して家業の生糸・羽二重(はぶたえ)の製造および仲買業を営み、福井に進出して松井機業場を設立し社長となった。 1899フランスのパリ万国博に福井県出品者総代として参加し、このあと農商務省の嘱託として欧米諸国の絹織物の実情を視察した。1900.10帰国。 すぐに欧米視察で学んだ技術を活かすため、力織機50台を据えた最新鋭の織布工場を創設した。福井県絹織物同業組合副組長に当選し、'16(T5)組合長に選ばれた。
 羽二重から人絹への移行過程で機業家としての役割を果たし、福井紡績や福井染色をそれぞれ設立して社長をつとめ、福井精練加工の合同問題への解決にあたり取締役にもなった。 染色業者間の競争激化で品質が問題となると福井県輸出織物染色工業組合を創設、また全国の染色組合を統合して、日本輸出織物染色工業組合連合会を結成するように働きかけ、自らが理事長に就任して業界の発展に努めた。 '23日本輸出絹同業組合連合会の副組長、日本輸出綿織物同業組合の副組長にそれぞれ就任。
 実業家として活動する一方、政治家としても活躍し、伊藤博文の知遇を得て、1900(M33)立憲政友会創立以来党員となって県支部の活動に参加し、'03福井県議となり、また市会議員も兼ねて県立工業学校や福井高等工業学校の設置に力を注ぐ。 1907.10.21(M40)福井県議会の19代副議長就任。'17(T6)絹業界の代表として公友会寄りの立場で衆議院議員に出馬し当選(当選3回、民政党)。 武藤山治主宰の実業同志会に入り、党の役職としては、党総務・党本部会計監督として中央でも要職にあり、党福井県支部長もつとめた。
 世界初となる人絹取引所の福井開設に尽力した。'19米国で開催された国際労働会議に西野藤助とともに出席。'25〜'33(T14〜S8)の没するまで福井商工会議所7代目会頭。現職のまま逝去。享年65歳。

<福井県人名辞典>
<講談社日本人名大辞典>
<明治の群像など>


墓所

*正面に二基の墓石。左側は洋型「松井家之墓」、右側は和型「松井文太郎墓」。墓所左側に墓誌がある。戒名は頌徳院釋泰連。妻はつね。


整理番号 22-057

※2011年5月現在。「この墓所のご縁者様は、下記番号をお控えのうえ霊園事務所にお立ち寄りください。<整理番号 22-057>」と書かれた看板が墓所入口に掲げられている。


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