メイン » » » 松平乗完
まつだいら のりさだ

松平乗完

まつだいら のりさだ

1752.5.4(宝暦2.3.21)〜 1793.9.23(寛政4.8.19)

江戸中期の三河西尾藩主(大給松平家)、老中

埋葬場所: 6区 2種 26側

 三河西尾六万石の藩主の松平乗祐の四男。通称は恆三郎、源次郎。号に鶴洲、省己堂。
 1769(明和6) 西尾藩襲封。1787.3.12(天明7)寺社奉行から、同年.12.16京都所司代に補せられ、松平定信が老中首座・将軍補佐役に就くと、1789.4.11御三家の推挙により老中に迎えられた。 老中としては、寛政の改革の一翼を担った。祖父乗邑の風を受け文事に通じ、和歌・俳句を能くした。 正室は諏訪忠林の娘、継室は松平武元の娘。在職のまま没す。享年42歳。従四位下・和泉守・侍従。乗完死後は子の乗寛が藩主を継いだ。娘は信濃高島藩の第7代藩主の諏訪忠粛の正室。

<江戸大名家総覧など>


*正面「源徳院殿寂譽諦觀了空大居士」。左面「故侍従和泉守従四位下源乗完朝臣墓」。裏面は碑文が刻む。墓は港区西久保の天徳寺から改葬。


【松平乗完墓碑について】
 墓碑には「執政従四位下侍従兼和泉守西尾城主源君墓誌銘」が林衡(述斎)の撰文により刻まれています。 林衡(述斎)は幕命により林大学頭家を継ぎ、寛政の改革で文教面に大きな影響を与えた人物ですが、元々は美濃岩村藩の世継になるべき人だった〔大給〕松平乗衡その人です。 実は、松平乗完と林述斎は従兄弟同士で、乗完が大給松平の本家、乗衡(林述斎)が分家の人ということになります。 因みに、二人の祖父が享保の改革で後半期に老中勝手掛として辣腕を揮った松平乗邑です。
 墓碑の主、松平乗完はこれまた老中として寛政の改革に関与していますが、亡くなる2年前の寛政三年三月二十一日の誕生日において、自身の葬儀や墓については華侈崇大する勿れと誡めた遺書を残しています(乗完公遺書として現存)。 港区の天徳寺にあった大給松平本家の墓碑のうちで、乗完の墓碑のみが多磨霊園に移された理由は不明ですが、林衡(述斎)撰文の墓誌銘が刻まれていたことが大きく作用したように思います。

<若森慶隆様より情報提供>


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・ま | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。