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まつだいら なおやす

松平直静

まつだいら なおやす

1848.2.23(嘉永.1.19)〜 1913.12.13(大正2)

幕末・明治期の大名(糸魚川藩松平家)、子爵

埋葬場所: 6区 2種 5側 1番

 播磨明石藩主の松平斉韶・松平直恒の娘の季遠姫の7男として生まれる。別名は直正。兄に播磨国明石藩第9代藩主の松平慶憲らがいる。
 1858.10.26(安政5)第9代糸魚川藩主だった松平直廉が松平茂昭として本家の福井藩を継ぐこととなったため、その後継ぎとして第8代藩主ですでに隠居していた直春(直廉の父)の娘の釣の婿養子として迎えられて、第10代糸魚川藩藩主として後を継いだ。 しかし若年のため、藩政は直春によって行われ、直静にはあまり表立った行動はなかった。
 1862.12(文久2)叙任。日向守。翌年、日光廟祭禮奉行。1864(元治1)大阪城加番。1868(M1)糸魚川藩を清崎藩と改称。 1869.6.24(M2)版籍奉還により清崎藩知事となり、1871廃藩置県で廃藩となり、同年9月に東京へ移った。1876勤番祇候宮中賜袴。 1884.7.8子爵。1895獻軍資賜銀杯。1897子爵会事務委員。享年65歳。従三位、正三位。
 正室は直春の娘の釣。継室に直春の娘で佐竹義理の養女の安屋。子に11代目を継いだ松平直幹、松平静徳らがいる。

<江戸大名墓総覧>
<日本の名門1000家など>
<秋元茂陽様より情報提供>


*10代松平直静と8代松平直春は港区の重秀寺に葬られ、初代直堅〜7代直益は西久保の天徳寺に葬られる。 しかし、関東大震災後の区画整理のため、昭和初年に多磨霊園に改葬。以後の死去者である11代直幹・12代直鎮も合祀。

*墓石正面は「松平家歴代墓」と刻む。墓石建立者として松平直幹の名が確認できる。

*重秀寺に埋葬された直静と直春の墓所は、改葬され縮小されましたが、直静の遺骨が同寺から多磨霊園の同墓に納骨されたのかは定かではありません。 遺骨は改葬されず重秀寺に合祀された可能性が高いと思われる。


【糸魚川藩松平家】(いといがわはんまつだいらけ)
 越後国(新潟県糸魚川市)に存在した藩。北陸道と千国街道の結節点であり、軍事と交通の要衝であった。
 糸魚川藩松平家は松平光通の二男直堅(福井藩越前松平家分家初代)を祖とし、直堅の長男の直知(福井藩越前松平家分家2代)、その孫の直之が1717(享保2)1万石で糸魚川に新封され、翌年、直好(〜元文4)に譲ったあと、賢房(〜安永2)、直紹(〜文化3)、直益(〜文政9)、直春(元治1)、直廉(越前福井本藩を継ぎ茂昭と改名)、直静と10代、150年を経て版籍奉還、廃藩置県となった。


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