メイン » » » 増澤 洵
ますざわ まこと

増澤 洵

ますざわ まこと

1925.5.5(大正14)〜 1990.10.12(平成2)

昭和期の建築家

埋葬場所: 14区 1種 9側

 東京出身。増澤棟造(同墓)の次男。1947(S22)東京帝国大学第二工学部建築学科卒業。同年、鹿島建設に入社し現場と設計部に勤めた後、'51アントニン・レーモンドに師事し、レーモンド設計事務所に入所。レーモンドはチェコ出身の建築家で帝国ホテル建設の際に来日し、その後日本に留まり、モダニズムの理念に基づく建築作品を多く残した人物。
 レーモンドからの学びの中で、'52自邸吹抜けのある家『最小限住居』を発表し小規模木造住宅の設計で新境地を開いた。吹抜けのある家『最小限住居』とは9坪ハウス・狭小住宅の代表作といわれ住宅デザイン史に輝かしい足跡を残す。終戦直後の物資に乏しく、日本の人々が誰もがどこにでも建てられるものとしてまず自身の自邸として設計。'51金融公庫の融資に当選し、小田急線東北沢駅最寄りの敷地に建てられた。建築面積29.75m2(9坪)、延べ床面積49.58m2(15坪)。設計期間は2ヶ月、工事は3ヶ月で竣工('52竣工)させた。2階建ての階高で部屋を分離させて開放性を獲得するため効果的に用いた吹抜けが特徴的で、生活に必要な要素がコンパクトに納まったシンプルでモダンな住宅デザインとして国内外の建築雑誌で取り上げられ、戦後の住宅史の中で特筆秀作の声も高い。この住宅に家族四人と事務所の機能をもたせていたという。
 '53「コアのあるH氏のすまい」(原邸)を発表し、この住宅はその後しばらく日本で住宅デザインに広く影響を及ぼした。雑誌の企画で発表した「ケーススタディハウス」の考え方やプランニングを実践した日本におけるモダン・ムーブメントの建築として高く評価された。
 '56増沢洵建築設計事務所を開設。'63〜'65日本建築家協会理事。'64〜'65東京大学工学部講師を務めた。'67〜'68中央建築士審査会試験委員。'70ハワイ大学客員教授。'76〜'78再び日本建築家協会理事。'78「成城学園」の建築で日本建築学会賞を受章。'83建築模型店を開催。同年「沼津市民文化センター」でBCS賞、中部建築賞受賞した。
 その他の作品に鈴鹿、北海道、南紀の各少年スポーツセンター、群馬音楽センター、カルピス本社ビル、新宿風月堂、桑沢デザイン研究所、山崎製菓古川工場、コマツビルなど多数。また簡素な小品・日本花の会結城農園がある。主な著書に 『体育施設』('75)、『集合住宅』('80)、 『洋風住宅設計図集』('81)、『和風住宅設計図集』('81)(全て井上書院)がある。'87 『住宅特集』“建築小思”を1年間執筆した。享年65歳。没翌年、「成城学園新図書館」で図書館協会賞を受賞。

<20世紀日本人名事典>
<デザイナーズファイルなど>


墓所

*墓石は和型「増澤家之墓」。裏面は「昭和十四年六月 増澤明 建之」と刻む。右側に一回り小さい「増澤墓」、左側に墓誌が建つ。戒名は洵洸院釋行信。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・ま | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。