詮煕の第七子の三男として生まれる。幼名は鉞之進、初めは詮良と称した。下総守。薙髪して松堂と号す。兄の詮允が没したことにより、1814(文化11)11歳で家督を相続し、越前国鯖江5万石を領し、鯖江藩第七代藩主となった。
天保7年、大阪城代に抜擢され、9年に京都所司代となる。11年、老中となるが、同役の水野忠邦と合わず、14年に辞任した。安政5年、ふたたび老中に列せられ、勝手掛兼外国掛となる。
同年、井伊直弼の命で梅田雲浜らを処罰し、のち直弼と対立して辞任した。井伊の赤鬼に対して、間部の青鬼といわれた。井伊と対立し1859免職された後、詮勝が老中在任中に失政ありとして、1862(文久2)に間部家は1万石の減封を蒙った。
<幕末維新江戸東京史跡事典(多磨霊園篇調査協力)> <コンサイス日本人名事典>
*同地に間部家の墓が5基並ぶ。一番角地の大きな墓が詮勝の墓である。前面に「本所 間部家累代之墓」と刻み、右面に旧越前鯖江藩と刻む。
その墓を正面に右方面にある間部家の墓の墓誌には、以下のような刻みが書かれている。
「本所間部家は元禄年間、間部隠岐守詮之を初代とし、爾来二百十余年、間部篤四郎(1890.11.14歿)の死により断絶した。
その母チセの遺志により、実子の野上清吉(1888〜1956.11.24)が本所間部家の墓域を継承した。」
*墓所は下総中山町の法華経寺と台東区花川戸の九品寺にあったが、花川戸九品寺が関東大震災後の都市計画により、寺院専属区画を用意した多磨墓地に移された。
多磨霊園の寺院専属区画とは、関東大震災で被災した寺院や都市計画のために檀家墓所の改葬を求められた寺院に対して、東京市が用意した場所であり、多磨霊園の3区・4区・5区・7区に設けられた。
多磨霊園が大正時代にできた霊園にも関わらず、この区域に江戸時代や明治期の墓所が多くあるのはそのためである。
*間部詮勝以降の継承者は以下である。詮実→詮道→詮信→勝章→詮正。
なお、間部詮信の代の1884(M17).7.8に鯖江(越前)藩・4万石の武家として子爵の爵位を授爵された。
間部詮実 まなべ あきざね
1827.4.28(文政10)〜 1863.11.27(文久3)
第8代越前鯖江藩主
第7代藩主の間部詮勝の二男。安房守。幼名は岩次郎。別名は巌次郎。
長兄が早世したため、世子に選ばれ、1862父が井伊直弼と協力して安政の大獄などを行なった責任により、強制隠居処分となったため、その後を継いで藩主となった。
『待月亭日記』70冊という随筆集を執筆。享年37歳。墓所は台東区花川戸の九品寺だったが、関東大震災後に多磨霊園に改葬された。
間部詮道 まなべ あきみち
1853.9.6(嘉永6)〜 1892.4.6(明治25)
第9代越前鯖江藩最後の藩主
第7代藩主の間部詮勝の九男。正室は大河内正和(松平正和)の娘の貴子。下総守。幼名は卍治。
1863(文久3)先代藩主で兄の間部詮実が死去したため、翌年養嗣子となって後を継いだ。
1869(M2)版籍奉還で藩知事となり、1871廃藩置県で免官されて東京へ移る。1882子の間部詮信に家督を譲った。享年40歳。
墓所は台東区花川戸の九品寺だったが、関東大震災後に多磨霊園に改葬された。
間部詮信 まなべ あきのぶ
子爵
1882(M15)第9代越前鯖江藩最後の藩主で父である間部詮道が隠居したため、家督を相続した。
1884(M17).7.8に鯖江(越前)藩・4万石の武家として子爵の爵位を授爵。
1943.11.30(S18)大阪心霊科学教会主宰により詐欺事件の被告とされたことが原因により、宮内省から華族礼遇停止の処分を受けた。
これにより爵位を返上した。
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