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まきの とらお

牧野虎雄

まきの とらお

1890.12.15(明治23)〜 1946.10.18(昭和21)

大正・昭和期の洋画家、多摩美大創設に尽力

埋葬場所: 7区 2種 5側 1番

 新潟県中頸城郡高田中々殿町(旧 高田市・上越市)出身。祖父は凧絵の名手の牧野角馬。土木事業家の牧野藤一郎の二男として生まれる。単身赴任をしていた父がいる東京に5歳の時より一家で上京し、渋谷代々木に住む。
 1908(M41)東京美術学校に入り、藤島武二、黒田清輝の指導を受け同校の特待生となり、在校中、第6回文展に『漁村』『朝の磯』の2点が初入選となり早くも頭角を現わした。'13 卒業後は研究科に入る。
 '19(T8)第1回帝展に無審査出品。'24 仲間たちと槐樹社(かいじゅしゃ)を創設し、機関誌「美術新論」を発行した。フォーブや日本独自の方式などを加え、帝展よりも自由で幅広い画風を通じて、当時の画壇に大きな影響を与えた。
 '26 第7回帝展審査員に任命される。'29(S4)帝国美術学校教授(武蔵野美術大学)に就任。'30 六潮会(りくちょうかい)を結成。'33 二年前に解散した槐樹社の会員や新進作家らで公募美術団体の旺玄社(おうげんしゃ)を結成。後進を指導する傍ら同展により作品を発表した。旺玄社では作家の自由な創作を尊重し、清潔、透明で開かれた運営を通じて、わが国美術界の健全な発展に貢献する良質で個性的な作風と、公平な審査を特色とし、画壇の雄として独自の地位を築いた。また「帝展不出品同盟」を結成している。
 この頃より、多摩帝国美術学校創設準備に伴い、常任評議員となり、創立に向けて尽力。'35 帝国美術学校教授を辞職し、多摩帝国美術学校(多摩美術大学)設立に伴い、西洋画科主任教授となった。なお多摩帝国美術学校の設置者出資金として700円出しただけに留まらず。上野毛校舎の建設費頭金のため、自身の絵画を売却し、満鉄本社から3000円、永見某に1000円出してもらう。加えて、'36 女子部附設費として270円寄付した。
 大正初め、初期の作品は重苦しい暗色を多く用いていたが、後、明色による明るい平明な画面となり、晩年は日本画の平面的な表現を取り入れ独自の様式化をみせた。食道がんにより逝去。享年56歳。
 旺玄社の代表は、'41より牧野に代わって小林喜代吉が務めていたが、戦争悪化のため思うような活動ができておらず、戦後、'46 牧野虎雄を中心に旺玄会と改称して再出発する矢先に牧野が亡くなる。またこの頃、既存の美術団体が続々と立ち上げを図る。'47 沼田一郎を代表として旺玄会第1回展を開催。翌年、八田尚之が牧野虎雄をモデルに執筆した小説「瓢人先生」が出版された。この「瓢人先生」は映画「生きている画像」(千葉泰樹 監督)として新東宝で映画化されている。'50 都立駒場高校に牧野虎雄記念館が設置された。'63 牧野虎雄記念館の全作品東京都美術館に移管。'94(H6)東京都美術館の収蔵品が東京都現代美術館に移管。なお、2022(R4)旺玄会主催の旺玄展は第88回を数える。

<コンサイス日本人名事典>
<日本美術年鑑>
<瓢人先生(牧野虎雄)とその時代年表>
<旺玄会HPなど>


墓所

*墓所正面に和型「牧野家之墓」、裏面「昭和十一年七月十一日 虎雄 建之」。右手側に「牧野虎雄之墓」、裏面「牧野四郎 建之」、右面「静雲院閑譽楽道瓢齋居士 昭和廿二年十月十八日歿 行年五十七歳」。なお牧野四郎は虎雄の弟。

*「牧野家之墓」の「野」は旧漢字、田+又の下に土。



第158回 多摩美大創設に尽力 洋画家 牧野虎雄 お墓ツアー


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