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まきむら まさなお

槙村正直

まきむら まさなお

1834(天保5)〜 1896(明治29)

明治期の官僚、知事、男爵

埋葬場所 (推測): 5区 青山墓地無縁
〔左から二番目〕

 山口県美東町出身。長州藩士羽仁正純の子。槙村氏の養子。初名を半九郎。号を龍山。
 1868(M1)長州出身で維新政府の要職についた木戸孝允は幕末時代から連絡役として重用してきた同じ長州出身の槙村を京都府に出仕させ、政治の世界の経験に乏しい初代京都府知事の長谷信篤の補佐をさせた。 まず議政官試補となり、ついで徴士・議政官。翌年大阪府兼勤。権弁事を経て、京都府権大参事となった。 '70小野組転籍事件に関し、謹慎を命ぜられる。34歳の若さで'71京都府大参事となり、実質的に京都府の政治の実権を左右できる立場に至った。 長谷知事退任にともない、'75京都府権知事になり、'78第2代京都府知事〔期間:1875.7(M8)〜1881.1(M14)〕に就任した。 会津藩出身の山本覚馬と京都出身の明石博高ら有識者を重用して果断な実行力で文明開化政策をすすめた。 '69わが国最初の小学校や中学校の制度を作ったのをはじめ、窮民援産所、外国語学校、女紅場、画学校、博物館などを創設した。 また、物産引立会社、勧業場、舎密局、織殿、染殿などを設立し、東京奠都後衰退した京都の文化・経済を振興するために尽力した。 生産機構や技術面で飛躍的な発展を遂げた京都の産業は、海外貿易などでも躍進を遂げた。 これは、槙村の積極的な助成と西洋の技術文化導入による近代化の成果であった。 ただし、近代国家の体制ができあがり、地方政治の制度が整ってくると、槙村の裁量権の幅もしだいに縮小し、やや強権的な政治手法は、新たにできた府会などとの対立もひき起こした。
 '81元老院議官となり東京へ転出。'87.5.24男爵の爵位を受爵。'90行政裁判所長官に就任。その後は貴族院議員(男爵議員)となった。 '91勲一等瑞宝章受章。享年62歳。死後、従二位の位階を贈られた。 槙村正直の没後、爵位を継承したのは槙村正介であるが、1933(S8)正介没後断絶したため、爵位を返上した。

<コンサイス日本人名事典>
<日本の名門1000家>
<『維新 京都を救った豪腕知事』(著:明田鉄男 小学館)>


*青山霊園に葬られたが、継承者の正介没後断絶したため、墓所も無縁扱いとなり、昭和36年10月31日多磨霊園の無縁墓地(青山墓地無縁)へ改葬された。


【槙村正直の功績】
教育分野1869(M2)京都近代化のため全国に先駆けて小学校や中学校の制度を作った。
化学分野1870(M3)末に「しやみ舎密局」を創設。理学・化学の研究を行い、薬物・石鹸・七宝などを作る。舎密はフランス語の化学(シェミー)の当て字。
皮革分野1871(M4)末に製革場を造る。舶来品をまねて諸種の革具を作る。
牧畜分野1872(M5)始めに牧畜場を開業。クローバーを牧草として輸入し、牛種の改良、綿羊の繁殖を試みる。
職業訓練1872(M5)女紅場を発足。外人教師を雇い、英語の学習や職業の習熟を図る。
栽培試験場1873(M6)開所。桑・茶・こうぞ楮・薬草などの栽培を指導。
鉄具製工場1873(M6)秋に開所。水車や舶来の諸器械を使用し、鉄管・ポンプ・その他の諸器械製造。
製靴技術1873(M6)始めに製靴場を開所。
織物技術1874(M7)6月に織殿を起業。フランス式の器械による織物伝習。
染色技術1875(M8)11月に染殿を開業。外人の指導で化学的染色方法を習熟。
洋紙の製造1876(M9)始めに起業。ドイツの機械を導入して洋紙の製造販売。
ビール醸造所1877(M10)7月に開所。

 槙村は1871参事になってただちに欧米の技術導入に着手し、また海外に派遣して技術の習得に努め京都の近代化に貢献した。 この考え方は現在に至るまで京都に根付き、京都の精密工業や芸術関連産業の発展につながっている。

<『幕末から維新へ』著:奈良本辰也 徳間書店>


【小野組転籍拒否事件】
 小野組とは三井組・島田組と並称される金融業者。井筒屋と号した。祖を近江に発し、のちに京都に移った。 長らく京都で糸割符商人、両替商を営む。1866小野善次郎は江戸の本両替仲間に加入。 明治新政府樹立に際し財政的援助をなし、'68当主の小野善助が為替方を命ぜられるまでになった。 このように小野組は、商売の中心が東京に移っていたため、本社も東京に移転しようとし、転籍願書を出した。 ところが、槙村は京都の産業が衰えることを心配し認めなかった。これに小野組は怒って裁判所に訴えた。 結果、小野組の勝訴となり、槙村は懲役刑に処された。太政大臣の岩倉具視の命令で槙村は釈放。 なお、小野組は'72三井組と共同して三井小野組合銀行を創立。'73第一国立銀行と改称した。

<日本史小辞典>


【多磨霊園の無縁墓地】
 正式名称は無縁合祠墓所という。5区の一角、大廻り線と東西線の交差するかたわら、大廻り線に面して七基の大きな墳墓が無縁墓地である。 1874(M7)に開設された古い市墓地であった亀戸、橋場の両墓地を、整理廃止したときに出た無縁仏を多磨霊園に移したものと、青山墓地の無縁仏を多磨霊園の17区に、一ヶ所1.5平方メートルあたりの小さな墓地をつくり、これを並列に埋葬してあったものを、改めてここに埋葬したものである。 また、東京市養育院が建設したものは、同院で死亡した引き取り手のない遺骨を埋葬したものであり、現在でも秋の彼岸に、その年に亡くなった者の遺骨の墓前祭を行なって埋葬している。



《多磨霊園合祠墓所一覧》 *道を背にして左側から
埋葬物建設年月体数墓所面積(m2)
東京市行路病者(納骨堂より)昭和18年50077.13
青山墓地無縁昭和10年3月147396.55
東京市(都)養育院死亡者昭和5年3月約4000055.91
亀戸墓地無縁昭和4年7月30440.87
板場墓地無縁昭和2年3月998367.41
多磨既設合葬地(17区より)昭和14年9月約800040.89
多磨霊園無縁昭和36年3月約350066.34

*青山霊園の無縁墓地は「青山墓地無縁」と「多磨既設合葬地」の二ヶ所ある。 「多磨既設合葬地」は昭和14年以前は17区に存在していたことより、「青山墓地無縁」よりも以前の無縁仏であることが推測できる。 一方「青山墓地無縁」が建設された昭和10年頃は、青山墓地の区画整理が行なわれた時期に該当し、青山墓地縮小のために多くの墓所が多磨霊園に改葬されているため、「多磨既設合葬地」以後、青山霊園から出た無縁仏である。 よって、槇村正直は「青山墓地無縁」に葬られたこととなる。

*上記の「多磨霊園合祠墓所一覧」は村越知世氏が執筆した『多磨霊園』を引用させていただきました。なお、平成13年に再改訂したものの引用のため、場所によっては現在の体数が増えている箇所もあること、ご承知おきください。


《槙村家墓所に関して徳川葵様からの情報提供》
 青山霊園の槙村家の墓所は平成15秋〜平成16春の間に改葬あるいは無縁墓地への移葬がなされたことを徳川葵様より情報提供いただきました。 よって、槙村家の墓所は青山霊園に平成15年までは建っていたということであり、上記にある「昭和36年10月31日多磨霊園の無縁墓地(青山墓地無縁)へ改葬」というのは間違いではないかというご指摘を頂戴いたしました。 なお、現在は青山霊園の槙村家があった墓所地は更地となっております。
 確かに槙村家は断絶しましたが、徳川葵様の推測によると、継室勝子の実家今村家か、正直女良子の嫁家である内藤子爵家が墓所管理を行っていたのではないかとのことです。 現存していた際の調査資料によると、同所に正介の墓所がないことより、別所に埋葬されており、同所に改葬されたものと考えられますが、埋葬場所が特定できておりません。 現在では、改葬場所および多磨霊園の無縁墓地内への移葬の断定ができかねる状況です。


《青山霊園の槙村家墓所に関して》
 下記写真は青山霊園のものです。
 墓域は5×10メートル程の広大な墓所であり、正直と同継室勝子の二基が建立されていた。
 〈墓所地〉 青山霊園1種ロ17区10側5番(現在更地)
 〈墓碑銘〉 従二位勲一等男爵槙村正直墓
 〈裏面〉   明治二十九年四月二十一日薨
 墓所は常時荒廃しており、花を手向ける人はここ何十年いなかったと推測される。

まきむら まさなお

<徳川葵様より情報提供>


※多磨霊園の無縁墓地への移葬説は非常に薄いと思われますが、当HPのコンセプトである墓を通して歴史を学ぶに則り、掲載文章をそのまま残すことにします。


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