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まきむら こうざぶろう

牧村孝三郎

まきむら こうざぶろう

1860(万延1)〜 1946.2.3(昭和21)

明治期の海軍軍人(大佐)、連繋機雷の考案者(牧村水雷)

埋葬場所: 22区 1種 64側

 江戸・東京出身。1881.9.15(M14)海軍兵学校卒業(8期)。八代六郎(後に大将)らが同期。在学中、1880.9.15 龍驤乗員を経験。卒業と同時に少尉補となり、1885.6.20 少尉に任官。1887.12.24 大尉に進み、迅鯨教官となる。
 1891.4.6 兵学校水雷術教官 兼 監事。1892.5.31 金剛水雷長、橋立水雷長、海軍大学校教官、海軍省軍務局第1課僚、技術会議員などを歴任。1896.4.13 愛宕分隊長に就任。1897.12.1 少佐に昇進。その後、中佐に進み、再び海軍大学校教官を務める。同.12.27 横須賀水雷団第1水雷敷設隊司令 兼 技術会議員。1898.12.3 呉水雷団第1水雷敷設隊司令、1901.8.30 呉水雷団水雷敷設隊司令、1903.9.26 大湊水雷団長心得 兼 臨時建築部員に着任した。
 牧村は連繋機雷の考案者として知られる。連繋水雷とは、水雷(機雷)をロープで4個ずつ繋ぎ合わせたもので、これを敵の艦船の進路上に投下し、その爆発によって損害を与えるための兵器である。「管制水雷」の一種である沈置浮揚式(沈底式浮揚機雷)の「牧村水雷」は、1903 兵器採用された。
 この時期は日露戦争におけるバルチック艦隊の津軽海峡通過の懸念があり、軍令部は、津軽海峡防衛隊を設置し対策を練っていた。1904.8(M37)津軽海峡防備を行うにあたり、牧村水雷が強潮流の津軽海峡敷設に適するかどうかの実地調査を行うことを命じられた。この時、牧村は呉水雷団長心得として大連方面の作戦に従事中であったが、直ちに召還され、この調査に当たった。牧村自身が実験を行い、牧村水雷は津軽海峡での使用には適さないことが判明する。それを報告すると、ほかに防備する有効な方法がないため、同.10 大湊水雷団長の宮岡直記海軍大佐を委員長とする「津軽海峡水雷防禦調査委員」が編成され、引き続きの調査と、牧村水雷の改良が検討されることになった。牧村もその委員のひとりとなる。翌年(1905)春に調査が再開され、度重なる実験が行われたが成果をあげられずにいた。そんな折、同.5.27 バルチック艦隊は津軽海峡ではなく、対馬沖のルートにて現れ、日本海海戦となり日本が勝利をした。同.11 本来の目的が解決したこと、最終的に沈置浮揚式の水雷では津軽海峡では適さないという結論に至り調査は終了した。
 1905.12.12 大佐に進級し、呉水雷団長に就任した。1906.11.30 予備役編入となった。正5位 勲3等 功5級。享年85歳。

<日本海軍士官総覧><日本海軍総覧>
<桜と錨の海軍砲術学校「連繋機雷について」(津軽海峡防備)堤明夫>


*墓石は和型「牧村家之墓」、裏面「昭和廿八年二月吉日 牧村進 建之」。右側に墓誌が建つ。「海軍大佐 正五位 勲三等 功五級」と刻む。妻は波子(S43.10.8歿・85才)。同墓には長男の牧村進(H3.5.1歿・82才)、進の妻は澄(H29.5.9歿・99才)も眠る。 ※23才年下の妻を娶り、退役後の49才にして子を儲けた計算になる。


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