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まき なおまさ

牧 朴真

まき なおまさ

1854.3.29(嘉永7)〜 1934.4.29(昭和9)

明治期の政治家、知事、水産官僚

埋葬場所: 12区 1種 2側

 肥前島原藩島原町出身。長崎県士族の牧真成の長男として生まれる。1875(M8)長崎県庁出任から福岡県庁に移る。後に上京し太政官に入る。元老院書記生を経て、1885法制局参事官、1888枢密院書記官を歴任後、実業界に入り総武鉄道会社々長となる。
 1890初めての第一回衆議院選挙が行われ、佐賀県から出馬、当選する。1892第二回選挙にも再選され、吏党員として活躍したが、再び官界に帰り、陸軍省嘱託、台湾総督府内務部長心得。日清戦争終結に伴って、1896.1台中県知事となり台湾へ赴任。1896.8.12〜1897.11.13第12代青森県知事に就任。次いで、1897.11.13〜1898.1.21第8代愛媛県知事となった。愛媛県知事としては在任期間はわずか二か月にして、内務省警保局長に転任した。
 1897年度の県政担当者は室孝次郎と牧朴真であったが、室は在職七か月で通常県会開会を前に退任し、後任の牧は同県全開会当初には未だ赴任していない状況であった。このため彼らの施策を議会に提示することができず、県会は議長、副議長、県参事会員を独占する進歩派の主導で進められた。同年12月通常県会に提示された中等学校設置順序諮問の答申において、超党派の調査委員が作成した原案が進歩派議員により一部修正され、尋常中学東予、南子分校は1900年度から本校に引き直す、農工商三学校は追って設立の時期を定める、女子中等教育は当分の間、適当な私立女学校に補助を与える答申案となったこと、高浜港の特別輸出港指定要請の件、県費負担の河川海岸港湾調査のための臨時土木委員設置の件などが、その代表例である。
 1898.10〜1906.11第7代農商務省水産局長となる。1904.7.24業調査船「珍彦丸(うずひこまる)」が佐賀関町の漁業者によって開拓されつつあった朝鮮海におけるフカ釣り漁業の試験を実施する目的で、船長以下7名が乗組み出港するも、途中、五島列島沖において、さんご礁の調査を試み、その操業中に、暴風雨の襲来に遭って転覆し消息をたった。乗組員全員が行方不明(死亡)という悲惨な結果を受けて、水産試験場の敷地内に、遭難者の氏名を刻んだ「珍彦丸遭難祀念碑」を、農商務省水産局長であった牧朴真が建立した(現在は移設され漁協所在地近くの公園に建つ)。また、アシカ漁をするため朝鮮側にヤンコ島(リアンコールト列岩、独島、竹島)の『貸下願』(島の利用申請)を提出しようとしていた漁業者の中井養三郎に対して、山座円次郎外務省政務局長と肝付兼行海軍省水路部長とで、中井を促し、貸下願の申請を『領土編入及び貸下願』に変更して日本政府に提出させ、1905.1.28申請を元に閣議決定を通じ、ヤンコ島を日本領土へ編入した。諸説あるが、これが発端で現在の竹島問題に続いているという説がある。
 大日本水産会副総裁。水産業発展のためにつくした。従3位 勲2等旭日重光章。享年81歳。

<講談社日本人名代辞典>
<日本歴代知事総覧など>


*名前のヨミを「ぼくしん」とするものもある。

*墓石和型「牧家累代墓」。右側に墓誌があり、牧朴眞が正式名称。「従三位 勲二等」とあり、戒名は智徳院殿朴真目僊大居士。妻は多麻子。長男の眞太は陸軍伍長で19才で殉職。家督を継いだ真言、その妻の常子の刻みもある。


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