青森県弘前市出身。東京出身の職業軍人であった馬淵常義と秋田県鹿角市八幡平小豆沢の神社の出のナヨの長女として父の任地で生まれる。母方・小豆沢安倍家の孫にあたる。
1919(T8)小学校は父の任地の都合で転々としたが、精華高等女学校卒業を経て、'31(S6)日本女子体育専門学校(日本女子体育大学)卒業。
同年、横浜のフェリス和英女学校体育教師に迎えられた。球技はあまり得意ではなかったが、ダンスや体操の指導でははつらつと生徒を引っ張った。徒歩部をつくり、生徒を引率して北アルプス踏破を敢行するなど積極的な活動を行った。
円盤投げでオリンピック出場を目指したが選に洩れ、失意の時に、専門学校の同級生であった級友の長山きよ子に誘われて飛行機に同乗、大空の魅力にとりつかれ、'33開校したての亜細亜航空学校に入学した。
土日と夏休みを利用して油にまみれて精進し、同年9月には三等、翌年3月には女性で18人目の二等飛行機操縦士技量証明書を交付された。しかし、営業用飛行機の操縦ができるのは100時間以上の練習時間を必要とする一等飛行士のみで、当時、女性には一等飛行士の受験資格すらなく、飛行家で自立する道は閉ざされていた。
'34.4(S9)初の単独飛行は、先輩と慕った朴敬元追悼のため、遭難現場伊豆玄岳へ飛行した。同.8.14「サルムソン2A2」で、応援してくれた祖母のいる秋田県鹿角(菩提野へ着陸)への郷土訪問飛行を果たす。
同.10.26「黄蝶号」で訪満飛行に出発。神奈川県知事、横浜市長らのメッセージと小学生の作文と図画を携え「皇軍慰問・日満親善」満州訪問飛行として、サポートのベテラン男性飛行士を乗せて、11.5無事に新京(長春)に到着。
その成功は軍国日本の大陸侵攻を後押しする役目を果たした。同.12日中戦争が始まり、計画をしていたドイツへの飛行が断念。
体育教師に戻った。二人で世界一周飛行をしようと約束をしていた長山きよ子が、友人の郷土訪問飛行中の事故で半身不随となってしまったこと、'37女性が飛行機に乗ること自体が禁止されたことにより、飛行家人生は終止符を打った。
'44.3静岡県に疎開。掛川高女などに勤める。長山きよ子を支え共に生活を続けたが、病を得て、きよ子より先に伊東市にて逝去。享年73歳。
身長は168センチで、生徒の列から頭一つ突き出る背の高い先生であった。また、短い飛行機人生だったが、その偉業は今も語り継がれている。