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こう よしろう

洪 悦郎

こう よしろう

1924.3.20(大正13)〜 2009.1.4(平成21)

昭和・平成期の建築学者

埋葬場所: 13区 1種 15側

 文禄の役(1592)に従った鍋島直茂が朝鮮半島(大韓民国晋州)から利発な一童子を救出して(被虜朝鮮人)佐賀に連れてきて(この時12才)、その後帰化して藩士となり、京都五山で儒学を学び、初代佐賀藩主の鍋島勝茂に仕え、書家として名を成した洪浩然(こう・こうぜん:ホン・ホヨン:号は雲海)を祖とする家系。
 東京出身。祖父は洪恒太郞。父は日本銀行調査局調査役などを務めた洪純一、しづ の長男として生まれる。洪浩然から数えて悦郎は12代目の当主にあたる。
 1945(S20)東京帝国大学第一工学部建築学科卒業。卒業後、大学院特別研究生として、コンクリート用軽量骨材の研究をした。'48 旧制大学では戦後初めて設置された北海道大学工学部建築工学科が誕生するに当り、大学院を退学し、「北海道ならばその研究も継続できる」と考え、助教授に就任。'49 横浜から氷川丸で小樽に上陸し着任した。
 研究分野はコンクリートであるがそれに留まらず、寒冷地建築の耐久性、住宅用窓の性能研究、住居の人間工学研究など幅広く研究した。特に寒冷積雪地という厳しい条件に対して、火山礫の利用と寒中コンクリートの技術確立をテーマとして、寒中コンクリート技術の基礎となる多くの新知見を得た。'59 学位論文『北海道におけるコンクリートの冬季施工に関する研究』を基に、'60 『寒冷地におけるコンクリートの性状に関する一連の研究』により、日本建築学会賞(論文)を受賞した。
 '65 労働省から受託され数年に渡り「北海道における冬季建設工事実施上の諸問題」に関する研究は、土木工学科、経済学部、教育学部の教官を含めた学際的な研究として、北海道の冬の雇用問題、労働環境の実態を捉えるうえで大きな成果をあげた。また冬季施工に関する気象条件の解析、仮設上屋に対する寒気の流入と採暖方法のあり方など、寒中コンクリートで最も問題となる初期凍害に対してのAE剤の効果の解明、冬季建築工事の増工費の算定に関する研究をした。'78 『寒中コンクリート施行指針案・同解説』が日本建築学会から刊行。英語だけでなくフランス語も堪能であり国際的にも活躍。国際材料構造研究連動(RILEM)の「寒中コンクリート指針」の制定に携わった。
 コンクリートの凍害に関する研究は、'65頃から実験設備を充実させて本格化し、コンクリート中の細孔構造と水分凍結温度に着目した凍害メカニズムの研究では、当時の講師であった鎌田英治とともに、'73 第1回セメント協会論文賞を受賞した。
 '84 北海道大学工学部教授。建築材料学講座を38年間担当した。'87 停年退官後は名誉教授。'89(H1)室蘭工業大学工学部教授を務め、'94 退官。
 この間、'86「寒冷地に於ける建築技術に関する優れた研究とその普及指導により本道産業の発展に貢献した功績」により北海道科学技術賞を受賞。'91 紫綬褒章。'96 勲2等瑞宝章受章。東京都目黒区の病院にて心不全にて逝去。享年84歳。

<「洪悦郎先生のご逝去を悼む」長谷川寿夫>
<「洪浩然に連なる会と大学の国際化」辻毅一郎>
<各紙訃報記事>
<人事興信録など>


墓所

*前面は「洪家之墓」。右側に墓誌がある。

*被虜朝鮮人の洪浩然は佐賀藩に仕え書家として大成し数々の書を残した。老年におよび、朝鮮へ帰国しようと、一度は唐津の境まで至ったが、主君の勝茂の懇請によって日本に留まることを決めた。1657(明暦3)主君の勝茂が参勤交代で江戸勤め中に死去したとき、佐賀城下の阿弥陀寺で追い腹を切り殉死。享年76歳。切腹にあたって、「忍 忍則心之宝(しのぶはすなわちこころのたから)不忍身之殃(しのばざるはみのわざわい)」との揮毫を家訓として遺した。佐賀県佐賀市の阿弥陀寺に葬られ、お墓は現存している。

*洪悦郎の二人の子はともに女子で他家へ嫁いだため、洪家はここで途切れることになった。そのため洪悦郎は生前、代々受け継いできた洪浩然の屏風、書などの遺品を佐賀県立名護屋城博物館に寄贈した。同博物館が以前から浩然の書等を所蔵し、調査や企画展示等を行っていたためである。


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